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言葉にしなくてもいい
前置きが長いです。うれしかったんだろうな、心が大きく動く出来事だったんだなという自分の感情の昂りが垣間見える。
先日、初めてのバイト先でよく面倒をみてもらっていた先輩が通っているアトリエの展覧会に行ってきた。2年前にもお邪魔して、アトリエの先生ともお話させてもらって、来年大学院生になったらアトリエ遊びに行きたいな!通ってもみたいなと思ったりしていた。世の中の状況が大きく変わってしまったこと、僕が病院でバイトを始めたことなどを鑑みて遠慮してしまい、すっかり疎遠になっていた。
不思議な縁だなと思う。一緒にバイトしてた当時はこんな話をするようになるなんて思ってなかったですね〜!と、バイトを離れてからこんなに頻度高く会うとも思ってなかったね!と、話して笑った。僕の学部生時代の卒業制作展にも来てくれて、とてもうれしかった記憶も懐かしい。
ひさしぶりに絵をじっくり観る機会となったので、時間もあるしゆっくり観ようと時間をかけて会場を回った。
展示会場は市の美術館のギャラリーだったので、あまり大きな規模でないのがとてもちょうどよく、心地よかった。大きな美術館に行くと、本当におなかいっぱいになってしまうので…各作品の熱量に圧倒されて、疲れてしまうというか。
そのアトリエの展覧会は2年に一度の開催で、15〜20人くらいの作品が1つ、2つくらいずつ展示されていて、その中で毎回、個展コーナーとして1人にフォーカスしてその人の作品だけが展示されているスペースがある。今回の展覧会では、先述の先輩の作品が個展コーナーに展示されるということで、一昨年よりたのしみな気持ちが大きかった。そして2年なんて本当にあっという間だな、とも思った。
ひさしぶりに先輩と会って話した事、絵を観て心に浮かんだ気持ち、それらを通して考えた事、忘れないように言葉にして残しておきたいと思った大事な感覚を、その日の帰り途から走り書きのように頭の片隅に残して反芻していた。以下はそれをゆっくりと時間をかけて言葉になおしてみたこと。でも言葉にしきれたとも思えない、とても難しくて、でもぐちゃぐちゃなままでも残しておきたいと思ったこと。
絵を観るとき、思っていること
僕は絵の見方を心得ているわけではないし(そもそもそんなものがあるのかもわからないけど)、そんなにちゃんと絵を描く事に向き合ってきた人間でもないけれど、絵を観るのは好きだ。
先輩の絵を観ていて思ったこと。
水彩の滲み、油絵の具の厚さ、筆の跡、そこに人が描いた痕跡を感じられるところを見てしまう。キャンバスの端の端に色をつけるとき、どんな気持ちなんだろう。さまざまな色が点描のように集まって混ざり合った画面は、それを描くときは各色ごとに描いているわけで、そのうちの一色だけに目を向けると、それを描いたときの手の動きが見えてくる。意図的にコントロールして描いたのか、画材の制御のきかない方法で描いたのかとか、そこに描かれているもの:モチーフや、色や、画面の構成だけを観るのではなくて、なぜそれを描こうと思ったのか、なぜこのタイトルなのか、描いた人の思いというか、そういったところから読み取れる、絵の向こう側にあるものを見たいという欲があるのかなと思う。
作品の受け取り方として考えていること
BUMP OF CHICKENの作詞作曲を手がける藤原基央が、2004年のインタビューでこんなことを述べていた。
曲の中に僕らの姿を探さないでほしい。直接繋がるんじゃなくて、音楽を介して繋がる事が一番正しい
2020年、結婚発表後のインタビュー記事では、こうも述べている。
『じゃああの曲ってもしかしたら』とか、『この曲で言われてる《君》っていうのはもしかして?』とか、ニュースを知ってくれて何かを思ってくれた人の中にはそういう声もあったみたいで。断固として違います、はい(笑)。
あったことをそのまんま書くとか、それは日記じゃないですか。それは俺の仕事じゃない。俺がやってきたのはあくまでもソングライティングなわけであって。僕が結婚発表しましたってことは、この曲で歌われてる《君》っていうのは要するにそういうことか、みたいな、そんな単純なメカニズムで24年間やってきてないぞっていう。
作者性のようなものの否定だろうか。作品を純粋に受け取ってほしいという意味なのか、言葉の意味を限定したくないという意味なのか、それとも、これはこういう意味だと明確な意図を持って作詞作曲している訳ではないということなのか。僕の胸中に明確な答えはまだない。
制作の背景にある原体験を述べることはあっても、詳細な歌詞の意味にまではどのインタビュー記事を読んでも言及しないところをみると、言葉の意味を限定してしまうことで聴く人がそのイメージや言葉の強さに囚われて、あるいは作詞者の立場になって楽曲をみてしまうことで共感できない部分が浮き彫りになってしまうこと、自由な聴き方ができなくなることを避けるというか、恐れてもいるように、個人的には感じる。
解釈は楽曲を聴く人に委ねるという彼らのスタンスはとても素敵で、だからこそ彼らの楽曲は普遍性を持ちこんなにも多くの人に響くのかなとも思う。
さて、話は少し逸れたが、僕が多大なる影響を受けているBUMP OF CHICKENのスタンスを受けて、僕はあらゆる作品に対して、できるだけその作品を純粋に受け取りたいと思うようになった(その見方以外が不純という意味では決してない)。それは当然、完璧には不可能なことだけど、作者の生い立ちや制作当時の状況、人物像など、作品に付随する情報を一度知ってしまったら、それが外せない色眼鏡となってしまう。自分が作品から受け取ったものが、その意味や感じ方が変わりうるということ。
そういった情報がないとちゃんと理解できないものもあるし、こういうバックグラウンドを持った人がこういう作品を作るのか、というところで納得できることもある。教養として、作品に付随する様々な情報を知っておくことで作品の見方が変わるとも思う。そしてBUMP OF CHICKENに関しては、僕は既に色眼鏡をかけてしまっている事は否定できないけれど…
ただそれでも僕は、作品に接して、その作品に表されていることに触れて自分がどう感じたか、何を考えたかということを大事にしたいのだと思う。
もちろんあらゆる作品の受け取り方、解釈は、自由だと思う。これが正しい見方、聴き方、味わい方だということはないと思うし、同時に間違った受け取り方というものもないと思う(批判とか、それを自分の外側に出すかどうかというのはまた別の話)。
ただその中で、僕はこういうふうに受け取りたいと考えて感じているんだろう、ということが今回の出来事を通してなんとなくみえてきた感じがする。
矛盾していると思ったけど、矛盾していないかも
「作品に接して、その作品に表されていることに触れて自分がどう感じたか、何を考えたかということを大事にしたい」と考えているのに、絵を観るときには、「人が描いた痕跡を感じられるところを見てしまう」と言った。
言葉になおしてみて、とても矛盾しているなと思いながら、でも言葉にするまで気づけなかった。先述の藤原基央の言葉を借りるならば、僕は「絵の中に、描いた人の姿を探そうとしている」ということ。
でもいま言葉にしてみることで思い返すと、その矛盾は先輩の絵にフォーカスしたときにだけ生まれているものなのかもしれない、と思い始めている。「絵を観るとき、思っていること」のパラグラフで書いたことは、先輩の絵を観ていたときのことを思い出しながら書いていた。
アトリエの先生の作品を観て先輩と話したときの自分の感想は作品について感じたものを素直に言葉にしたな、という記憶、展覧会の中で好きだと思った作品についての感想は、絵そのものの印象を言葉にしていたなという記憶。あのときは感じたいように感じて、思ったように話した。
それは、感覚と思考の矛盾みたいなものではなくて、「作者のことを知っているからこそ起こってしまうものなのかもしれない」という一つの答えが降ってきた。
そのアトリエで僕がよく知っている人は先輩しかいなくて、それ以外の人の作品は、キャプションにある名前以外、あるいは、先輩から「こんな人なんだよ」と少し話を聞く以外には何も情報がない。作者についての想像の余地が無限にある。だからあまりそういったことは考えていない気がする。
でも先輩の作品を観るときには、自分の知る先輩の人柄が先に立ち、「この人が描いたもの」という色眼鏡を取り去ることがどうしてもできない。だから無意識に、モチーフ、描き方、色選び、構成の全てに「その人らしさ」をみてしまうし、探してしまうのかもしれない。
小説を書いて自分で出版した友人がいる。彼が書いた小説を読んだときに感じた感覚とは違うけれど、どこか近いものがあるように感じた。
本屋さんで売られている小説は、その作者のことを知っていると言っても、せいぜいネット上で明らかにされている程度の「情報」しか知らない。だからどんな人が書いたかということはそこまで作品に影響しないのである。しかし僕がよく知る友人が書いた小説を読んでいるとき、作品に没入して読むということができなかった。
この感覚は何と言えばいいのかわからない。まだ言葉になおらない感覚。
絵と小説では、その性質が異なるから上手く言えないような気もするけれど。
うーん、でもこれは矛盾ではないのかもしれない。
「人が描いた痕跡を感じられるところを見てしまう」ことで、絵から受け取ったもの、感じたことは、「作品に接して、その作品に表されていることに触れて自分がどう感じたか、何を考えたかということ」でもあるわけで…
感覚も思考も、言葉にするのは難しい。
言葉にして残しておきたかった
絵を描くということは、描きたいものを描きたいままに描くこと、なにかを写して模写すること、自分の目に見える世界を描くこと、頭の中をそのままに出力すること、いろいろあるけれど、いろいろなインスピレーションが元になって生まれてくるものを画面に落とし込む、形にする、という行為だと思う。
同時にその行為には自分の深い部分が表れるということでもある。当然受け取り手には自分が思ったことと違う伝わり方をすることもあるだろうし、けれど先輩はいろんな人が話すいろんな解釈を、積極的に、うれしそうに、聞いていたのが印象に残っている。
自分の深い部分が表れる作品を人に見せることにおいて、僕は恐さが先に立つ。どうしても無視できない大きさでその感覚はあるから、見せるときには抵抗感を拭い去るのが大変だったり、なかなかの覚悟が必要なものだと思う。
だから、ゆくゆくは一人で個展をやりたいと話していた先輩はそれを恐れることなく(実際はあるのかもしれないけれど)、自分が表現したものについて、作品を見せる場を通して、自分の内側を共有することに価値を感じていて、それは彼女にとって恐れなどよりもずっと大きいものなんだろうと思った。人によって異なる解釈や感想、もしかするとときにはマイナスの言葉すらも吸収して自分の感性と照らし合わせていくのだろうと思うと、僕にはとても眩しく映った。
先輩の作品の中には、僕がまだ公にしていないけれど少しずつ描き進めている絵(高校生時代に使っていたTwitterアカウントに、その絵の原案のようなものを題名を添えて載せたことがある)につけた題名と同じ題名の作品があった。
捉え方や感覚の違い、もちろん画材の違いというのもあるけれど、共通する感覚の異なるアウトプットを目の当たりにして、えもいわれぬ気持ちになった。同じ人間なのに、自分以外の他者とは感覚を100%共有することがどうしたってできない切なさを強く感じた。なのに、言葉が全てじゃないという、ある意味で救いに近いような、可能性を感じたとでも言えばいいのか、光が射しこむような高揚感も同時にあって、絵の題名のシンクロというただの偶然の一致が、僕にとってこんなに深い体験になるなんて、そしてそれに出会えるなんて思ってもいなかった。
これは感動と言っていい感覚だったと思う。
言葉にしなくてもいい
僕は思考や感覚の言語化が難しいなと常々思っている。先輩とはそういう話もしたけれど、先輩は「そのまま持って帰りな」と言ってくれてとてもうれしかったこと。
そのとき急いで咄嗟に手頃な言葉にしてしまったり、しどろもどろにどうにか絞り出したりするのではなく、すぐに言葉にできないことを反芻するきっかけになった。急がないことも、考えさせてくれることも、とてもありがたかった。きっと感想は聞きたかっただろうに、無理に言葉にしなくていいと言えるのは優しさだな、と感じました。
そうして持ち帰ってから、時間をかけてもやっぱり言葉にするのは難しくて、少しずつ言葉になっては別の言葉に置き換わって、書き切っても書き切った気がしていない。それでもどうにか言葉にして残しておきたかったので、書き留めるように、感じたことや考えたことを、近そうな言葉に当てはめていった。
忘れないうちに、走り書きでいいから。
言葉に直せない感覚もまだまだあるけれど、これを書いたときの気持ちを振り返ることでその感覚は蘇ってくる。そのきっかけを作るための言語化だと思えば、ひとまず近い言葉に当てはめてみるのも案外悪くないかもしれない。
2年後には、もうすこし自分の感覚を上手く言葉になおせているかも。
いつものように全くまとまらないまとめ。
先輩とはまたいろいろ話したいな、という気持ちだけが強く残った。