見出し画像

【展覧会】田中一村展@東京都美術館

東京都美術館で開催中の「田中一村展」に行ってきたので感想を綴りたいと思います。



一村作品との出会い

田中一村を知ったのは、私が東京に住みアートで身を立てたいと志してすぐのころに知人のデザイナーから「田中一村を見た方がいいよ」と言われたことがきっかけです。
その後数年も経たないうちに横浜で一村の個展があり見に行きました。これが2004年の事ですからもう20年も前の事になります。当時の個展も幼少期から奄美の作品までおおよそ200点ちかくあったかと思います。

南国のモチーフと独特の画風に本当に圧倒され暫く見つめるしかなかったのと同時に、当時の私は一人の画家が一生涯かけて残した作品がここに集結されているのをみて命に限りがあるように、残せる作品にも限りがあるのだなと愕然とした記憶があります。

健康で若いころは自分の命は永遠に続く錯覚をしますが、本当にこれからどのぐらい(精神が)健康で作りたい作品を作れるのかを考えたときに今までほとんどそういった作品を作れていなかった自分を悔んでいるのと共に20年前に横浜で愕然としたことを思い出し、今改めて一村の生き方のすごさを実感しています。

私は独学で造形作品の制作を始め、15年間フリーランスで雑誌、書籍、イベント等のプロモーション、テレビと様々な造形の仕事をしてきましたが生業として制作してきた作品はクライアントワーク中心で今手元に残っている作品というのはありません。また自分に著作があるものも少ないのでそういう意味でも「自分が作りたい作品を作って来たのか」というとそういう事ではなかったと思います。
ただ、当時は「アートを仕事にする」を必死でやってきた結果、紙媒体からテレビまで理想としていた仕事に携われて自分なりに満足した時期でした。
周りでアート活動をしている知人の中には商業的に成功してこそ一流と考える人もいたし、商業作品には興味がなくただ作品をコツコツと制作し数年に一度個展をするような人もいました。

作品との向き合い方は人それぞれ。どれが正解かは自分の人生ですから自分で決めること。ただ一村のような生き方は当時も今も変わらずとても困難を極める人生の選択だと思います。
人が一村に惹かれるのはやはり自分にはない人生の生き方を選択した一人の画家の生きざまを作品を通じて知ったからではないのかなと想像します。


一村と奄美

画像は左が20年前に横浜そごうで開催された個展の図録、右が今回の東京都美術館での個展図録です。厚みは今回の方が1.5倍ぐらいあり、近年新しく一村作品が続々見つかっているので掲載作品も圧倒的に多いです。
ですが、20年前の図録の大矢鞆音さんの解説が非常に分かりやすく心を打つ文面になっていて私はとても好きです。

一村は幼少期に神童と言われながら家族の不幸が重なり生活の為に絵を描き続けましたが、それは自分が目指す道ではないと九州四国へ旅に出ました。奄美に渡るまでなんども挑戦した展覧会ではなかなか認められず、50歳で画壇と決別し単身で奄美への移住を決意した一村。

何故奄美だったのか。
下記が図録にあった大矢さんの記述です。

しかし、それにしても何故奄美大島だったのか。奄美大島にわたろうと決意した、そもそものねらいはどこにあったのだろうか。一村の妹房子さんのご子息宏さんと、その点について話をしたことがある。それによると、「たまたま私の同級生に奄美から来た女の子がおりまして、その話を伯父にしたら、どんな気候なのか、どんな所なのか聞いてきてくれ、と頼まれましたよ。伯父は暖かな土地だから、シャツ一枚で過ごせる、とか、生活費が安くて済む、とかいろいろ考えての事だったのではないでしょうか」と推測する。「いつかは北の風景も描いてみたい」とも語っていたという。「昭和二十八年に奄美が、米軍の占領から解放され日本に復帰したという点も伯父の頭にあったのではないでしょうか」。
日本の一番の南端、東京から一番遠い所、中央画壇のヒエラルキーの届かない所、それが奄美だったのか。

「奄美を描く画家 田中一村展(2004年)」図録より

南国の島に思いを馳せて長い旅の後に決意を新たに奄美に降り立った一村。
見たこともない植物や鳥など、南国特有の造形美をスケッチしながら、借りた家の庭で得意の畑仕事をして野菜などを作りはじめました。
それから三か月経ち千葉の知人に宛てた手紙から奄美に移住したことが正しかったのだという自信を感じます。
「私がこの南の島に来ているのは人生修行や絵の勉強に来ているのではありません。私の絵描きとしての生涯の最後を飾る絵を描くために来ていることがはっきりしました」

またこうも記しています。
「東京で地位を獲得している画家は資産家の子弟か優れた外交手腕の所有者です。絵の実力だけでは決して地位は得られません。学閥と金と外交手腕です。私にはそのいづれもありません。絵の実力だけです。」

別の手紙には「奄美での作品は保存しておき、もし運があったら東京で勝負をつける材料にします」と書いたそうです。
中央画壇と決別した一村が心の中で「いつか見返してやるのだ」という反骨精神がずっとあったことが伺えます。

奄美での作品はほとんど絹本に描かれています。
東京の画材商から送ってもらう際の利便性、つまり折りたたんで送れるという事と、奄美の住居の狭い空間で描くには扱いが楽だったのではという見方がされているのと、また生絹は日本画顔料の美しさを最良の形で引き出してくれるということでそういう魅力がある絹本を一村が選んだのでしょうか。
顔料も絹も非常に高価であったと想像しますが、一村は奄美で大島紬の染色工として3年働き絵の為の貯金をしてその後仕事を辞めて2年絵を描きました。そしてまた2年働きその後また絵を描きました。

「紬工場で5年働きました。工場一の働き者と言われるほど働いて60万貯金しました。そして去年今年来年と3年間でその70%をつぎ込んで私の絵描きの一生の最後の絵を描きつつあるしだいです。一枚に二か月かかり三か年で20枚はとてもできません。私の絵の最終決定版の絵がヒューマニティとも悪魔的とも絵の正道であるとも邪道であるともなんと批評されても私は満足なのです。この私の絵は数人の千葉の友に見ていただければ充分なのでございます。私の千葉へのお別れの挨拶なのですから。そして絵はまた奄美に持ち帰り私は紬染色工として生活します。70の齢(よわい)をたもって健康であったならまた絵を描きましょうと思います。」

昭和44~5年頃の手紙の下書き(NHK日曜美術館/黒潮の画譜~異端の画家 田中一村)


奄美の作品

奄美のスケッチをみると、驚くほど細密に描かれていて一村の観察力と奄美の自然に対する探究心が伺えます。
それにしても一村の作品はリアルな植物や鳥を描いているにもかかわらず非常に幻想的なのはどうしてなのか、本当に不思議な印象なんですよね。

写実的だけど、よく見るとあり得ないぐらいデフォルメされてダイナミックに表現されているビロウ樹。
作品「ビロウ樹の森」(下記ブックマークの画像あり)は墨の濃淡だけで前後に重なり合うビロウを描き、またその葉の間から覗く木漏れ日がビロウをより幻想的に見せているのが本当に美しいです。

また私が一村の作品の中で一番好きな「榕樹(ようじゅ)に虎みみづく」では巨大なガジュマルの気根が複雑に絡み合っている様子が墨の濃淡で描かれていてその迫力が素晴らしい。上部にトラミミズクが居るんですがよく見ると一本足で枝に止まっています。スケッチではちゃんと二本足で止まっていたものを作品では一本としているわけです。ミミズク(フクロウ)というのは安心して休憩を取る時、周りに危険がないことを確認した時に一本足になるそうです。一村がそれを描いたという事は、ミミズクを安心させるまでじっと観察していたということになりますよね。
他の生物、例えば鳥なども専門家さんによるとその生態を正しく描いているのが一村なのだそうです。

奄美19年間の中で残した作品は30にも満たないだろうと言われています。
それゆえ一つ一つが渾身の作品となっているのが上記の作品の詳細を見ても伺えます。
日本画の要素は残しつつも表現は洋画のようでもあるし現代のイラストレーションにも通じる雰囲気を持っていて、どの画家とも似つかないスタイルです。これは、一村が独学で常に一人で研究し苦悩しつづけたからこそ得られた画風のような気がしてなりません。


今回の展覧会についての感想

ブックマーク表

展覧会グッズのブックマーク。
左からクワズイモとソテツ、ビロウ樹の森、初夏の海にアカショウビン

ブックマーク裏


過去最大の一村の展覧会ですので、作品数も非常に多くすべてをじっくり見るのに時間を要しますし、また東京という場所柄非常に混雑しています。
今回東京都美術館に朝一で行ったのですが、昼前に美術館出口に行ったら、なんと入り口では大行列で入場制限をしていました。平日でも大混雑です。
一村ってこんなに人気だったっけ?
とびっくりしたのですが、今回の展覧会に合わせてNHKの日曜美術館で再び一村が放送されていましたので、きっとテレビを見た人も多かったのではと思いました。
最後にNHKが制作した一村が暮らした奄美の映像が大きなスクリーンで映されていましたが、あの映像をみて本当に奄美大島へ行きたくなりました。
奄美への旅行を来年の目標にしたいと思いました。

生前は日の目を見ることが無かった一村ですが、奄美の作品を始め生涯かけて描いた作品の多くが現代の人の心を打つことになり、天国からどんな思いで見ているのでしょうか?
中央画壇への反骨精神があった一村ですから「ついに認められたのだ」と満足げに思っているでしょうか。それもあるかもしれませんが、最後に「エンマ大王への土産」として描いた2点の作品(一つは上記ブックマーク画像の「クワズイモとソテツ」)から想像するに、奄美を終の棲家とした「絵描きとしての生涯の最後を飾る絵を描く」という目的が果たされたのかなと思いました。
奄美の住居から未完成の作品が多数みつかったという事ですから、それらの作品を仕上げたかったという心残りはあったかもしれませんが、芸術の追及に終わりはないので、作品を作り続ける=命ある限りとなるのだと思います。

人間だれしも寿命はいつやってくるか分かりません。
だからいつも作品とは真摯に向き合っていきたい。けれど私にはまだその心の準備と努力と実力が伴っていない気がして、今回の一村展を通してこれから本当に少しずつ気持ちを改めていこうと思いました。

私の場合は「絵」ではありませんが、一生のうちで心から自分で満足できる作品が一つでも完成させることが出来たらなんと幸せなことでしょうか。
明日からその作品作りに向けて少しずつ頑張りたいと思いました。

東京都美術館での田中一村展は12月1日迄となっています。
大変見ごたえのある展覧会ですが、もう会期終盤で非常に混雑していますので行かれる予定の方はご注意くださいね。

それにしても今回は地方への巡回展はないのでしょうか?関西で奄美作品の再会を待っています。



いいなと思ったら応援しよう!