見出し画像

絵を描く理由を考える理由2

「美術という小屋」

 私は様々な職種を経験した上で、絵が私にとって一番であると感じたわけではない。私の経験は極めて限られており、絵も含むあらゆる分野の経験はそのほとんどが学校教育に依存している。
 また、デザインや映像制作や執筆や企画運営も同様に私には魅力であり、私が経験していないアニメーション制作や陶芸にも魅力は潜んでいることだろう。また美術に限らず、数学や法学、社会学や哲学、スポーツにも安住できる道はあるかもしれない。
 義務教育期間に美術が得意だったから今があるというのは事実の半分を占めるが、それはあまりに楽観的で思考を怠っている。仮に中学で数学が苦手だったからと言って、今の私が数学を志してはいけない理由などないように、美術が幼少期から好き好んだ活動であったからと言って、今美術を主として行う義務などないのである。
 今までずっと扱ってきたからその道に進む方が楽で効率的かもしれぬという怠慢な思考の結果に安眠してはいけない。むしろそれは自分の可能性を限定している。外に出ることをせずに、嘗ての自分が建てた美術という小屋に閉じこもっているのだ。
 私は小屋の定義を省みることもせずにただただその場に安眠している。それは学校教育による大まかな分担の中に自分を置いて、ただ易々とその身分制に取り込まれることを良しとしているのだ。
 小屋が風化し、今にも倒れようとしても私はどうすることもできない。美術への希望が縮小し、自分の思うような美術の需要は日本には存在しないと判っても尚も承認欲求を抱いたまま小屋に立て篭もる。私は美術を愛す理由を持たないのと同様に捨てる理由も持てずにいる。
 仮に私が事故や病理で失明をして、私が美術という小屋から強制的に追い出された時、私は「住むところがない」と嘆く。だがそれは嘘だ。私は自ら路頭に迷うことを選んだのだ。自ら美術の小屋に立て篭り、他に家を探そうとしなかった、ただそれだけのことである。
 執着は安易より生ず。そして努力により支えを受ける。それは「愛」や「趣向」や「努力家」という言葉で社会的な賛美を受け、「職業」や「学歴」という区分で庇護を受ける。それは社会に参画する美徳であって、事実物事を高みへと極める前提である。
 しかし私は同時にそれらを捨て去る勇気も持たねばならない。それは私が慣れ親しんだ衣に過ぎず、肉体ではないこと自覚せねばならない。そうでなくては、私は真にその分野に向き合う理由を知ることはできない。

2021.1.6

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?