[絵画における写実の作用について]
まずここで述べる「写実」とは主に遠近法を用いるなどして基本的に形に対する違和を持たない表現のこととする。演劇で言うなら大袈裟でない演技、自然派なものというのが近しいように思う。
写実は一見「普遍的な」形体を宿している。例えばりんごの写実なら、人がりんごとして見て違和のない形を言う。すなわち人はそこに個性的な特徴を見出せないのであって、つまりはより写実であることはより没個性的と見られる所以はここにある。
この考えに基づくならば、絵画の多くは写実の度合いの操作によって個性・没個性の割合が定まるということになるが、実際はそうではなく実態はより複雑である。
そもそも写実の実態を理解するには、違和を感じない表現が持つ作用について考えなくてはならない。
違和を感じない表現、例えばりんごを描いた写実絵画があったとして、それはただ違和のないりんごしか表現し得ないかというとそうではない。遠近法に基づく写実である場合、そこには空間表現が含まれている。
そしてりんごの形や色合いが慣れ親しんだ違和のない形を持つとしても、この二次元上に捏造された空間には違和がないではない。それは完璧なだまし絵ではない。なぜなら観者は絵の中のりんごを実物としては見ないからだ。
それを偽物と知って見る。偽物だからこそ観る。つまりいくら写実と言われようともその先には必ず偽物の壁が存在しているのである。
そして形が実物に近しいと思われるほどより微細な実物との違いが明らかになる。というのも違和を持たないというのはその先のより詳細な違和を明らかにするからである。すなわち写実は観者に対する透過作用を持っている。そして普遍として観者の認識をすり抜けた先により詳細な実物との違和が現れるのだ。
しかし観者は全体の普遍性に騙されて、その詳細な違和を無意識のうちに捉え、解析をすることができない。その結果観者にとって詳細な違和は絵に現れる特異な「雰囲気」として感ぜられる。
絵に感じる透明感だとか、静けさだとか、固さ柔らかさ、品格などは全てこの詳細な違和なのではないか。そしてその違和は実物との違和にとどまらず、絵画同士の違和、あらゆる造形との差異に及んでいる。
写実が「実物と同じ形体だ」と観者に思わせることによって、その先の違和を明らかにする。これが写実絵画の作用である。
ある人物画を見た時に、そこに「静寂を感じた」と言うならばそれは正に詳細な違和の現れが関係している。静寂とは人にとって「目に見えないもの」である。よって静寂は目に見えないかたちで表されなくてはならないが。実際はすべて形と色の操作によって表される。それこそがその先の違和と言えるものである。
このように写実の役割は見えないものを「見えないままに」表現するための透過作用を持っている。目に見えぬと人が思うものを「目に見えぬ」形で見せられなくてはならないとき初めて写実がその意味を持つのではないだろうか。
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