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木を切るという仕事

造園業の見習いという役割が、今、とても楽しい。
先日、近所の定期管理に入らせてもらっているお庭で、大きな木を伐採する仕事を初めてやった。

実際にチェーンソーで切る仕事をしたのは相方。彼女も職人見習い中で、マイチェーンソーや草刈機を持っているので、自転車で軽量な道具しか持たない私とは違って、本格派である。私はロープを引っ張ったり、伐採後の枝払いをしたり、切るまでの調整役。

私たちは、師匠にどこをどう切ったら良いか指南を受けながら、直径30cm以上になるヤマモモの木と、直径20センチ程のカシワの木を切る体験をした。

その際、当日の提案で、木を切る前にお酒と塩と水を用意してもらい、祓詞を唱える儀式をしたのが、とても良かった。お陰で気持ちが整い、無事故で終えられた。

祓詞は、スマホで調べて画面を見ながら、噛み噛みではあったものの、やはり命あるものを目の前にして、その身に刃を入れ切り倒すわけだから、リラックスしつつも緊張しているような良い集中状態でないと危ない。思わぬ事故になる可能性は実際いくつもあったので、毎回初心に返る意味でも、次の機会には、目を閉じても唱えられるようにしたい。


私自身は、特定の神様を信じているわけではないので、ざっくりとしたこの土地の持つ記憶、大きくて把握しきれないほどの空洞のような存在や空間に言葉を放っておく。そんなイメージだ。

儀式なんて別にしなくても良いのだが、やると格好がつくのは事実。

季節の行事から、家族親族の集まりなどをちゃんと出来た記憶がないほど、興味のない、いい加減な私だが、儀式が嫌いではない気持ちや態度もしっかり持っているのが不思議だ。厳密には正しいやり方があるのだろうが、大切なのは、あり方だと思う。

そういえば「木遣り唄」なども、独特のカッコよさがある。

基本、男性文化、おじさん、じいさんが朗々と唄うのがかっこいいものなので無理して真似しようとは思わないが。

カッコイイという感覚は、面白いとか、美しいとともに、大事にしたいもの。

ということで、ちょっと脱線、そして飛躍するようだが、自然環境を良くしていくという意味で木を切る仕事もカッコイイ。ということを言いたかったのだ。なぜ私はそう感じるのだろう。よくは分からないが、広い意味での芸能、芸術、総合、統合、そんなワードがピッタリはまる世界だからだろう。
造園業は、3Kのイメージが強く、実際に、そんな現場がたくさんあることも知っているが、本来は、そうではないのだ。

その理由は様々あるので、ここでも何度か書いていくと思うが、これからの10年は、私自身が良い職人になるというよりも、造園業が子どもたちの憧れの職業になるような”はたらき”をしたいと思っている。

そんなことを考えながら、木遣り唄を検索していたら、柳田國男の「先祖の話」を解説した動画が出てきた。ざっと流した感じ、木遣り唄は出てこなかったし、私もこの本は読んでいないのだけど、「自治」を考えるときに、参考になる点もあるかも。






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