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よもぎと。

noteを開始しようと思ってから急に請負仕事が忙しくなり、ついうっかり、ひと月が経ってしまった。ようやく一息ついたので、「野草と。」シリーズ他、ぼちぼち書いていきます。

今年(2024年)に入って、「よもぎ」との相性がなんかすごく良いのではないかと感じるようになっている。近くに借りている畑でも、よもぎゾーンが欲しいなと思ってよもぎ畝を一列作ったところ、見た目もいいし、取り放題になるしといいことづくめ。

その景色を見ているだけでも割と満足なのだが、大量に採れるようになってから、よもぎが私の日々の暮らしに、ゆっくりと入り込んできた。今さっき、テレビで「節約グルメ」の紹介が流れていて気がついたのは、野草と暮らすということを、私の場合、節約するためにやっているわけではないのだよな…ということ。じゃあなんだと言われれば「美意識」なのだと思う。

民間療法のお医者さん的でもなく、野草の効能に詳しい栄養士でもなく、野草ならなんでも任せてという博士でもなく、野草でつくるアレコレをおしゃれに紹介するインフルエンサーでもない、「ただ共に生きる人」でありたい。

本を見れば、よもぎの効能などがずらっと出てくるのだが、どうも栄養学的なものは覚えられないタチである。世の中で役に立つのは、おそらく、そういう方面の情報だろうし、私もついついそんな情報を見てしまったりもするのだが、なぜ覚えられないのだろう?しかも、年々忘れる速度が早まっている気がする。

「どういう人の、どういう時に、どういいか?」を極めるような仕事はどうも違うのだと諦めたら、とても楽になった。その余裕、あいた空間に、野草の方から、スッと入ってきてくれるのを待つ。そんな感じだ。

「とりあえず食べてみれば?」
とよもぎが言ったかどうかは知らない。
最初は定番のよもぎ団子なども一応作ってみたのだが、それほどの感動はなかった。なぜなら、普段から団子を食べる習慣がないからである。よもぎ団子をつくるという、(私にとっては)キラキラした目的のために、普段しない準備をすることがナンセンスだ。

——野草は野菜の原種。

そんな風に思って、自由に遊べばよい。よもぎの生の葉の苦味はサイコーだ。薬味っぽくてサラダに入れても、炒めたり味噌汁に入れてもよし。生もしくは、乾燥させてから、ドクダミやよもぎと合わせて適当に煮出して薬湯をつくるのもよかった。夏の朝、薬湯を染み込ませたホットタオルでベタついた身体を拭うのは気持ちよく、使わなかった残りはお茶になった。

そして、つい最近、よもぎの花の蕾も美味しいことに気がついた。

ちょっとピントがずれているが、この小さな可愛らしい粒々が、よもぎの花の蕾(つぼみ)だ。
たまたま炒飯だったので振りかけてみた図。

要は、「紫蘇の実」と同じ扱い。ちゃんとしごけば、もっとパラパラにすることもできる。2房くらい摘んで、そのまま食べたりもして、この時期ならではの「苦み」を楽しむ喜びを知ってしまった。

しかし、こう、苦いものを美味しいと感じるということは、身体が病んでいるからかもしれない。とも思う。

上のチャーハンも冷凍ものに人参だけ加えてみたものだし、先日は、カップラーメンも食べた。最近、外食や飲み会も増えていたからなあ...。ぼんやり振り返る私に、よもぎは苦くてやさしい。

今日は、乾燥させていたよもぎの、枝と葉を仕分けて柔らかな葉を箱に詰めるという作業をしていた。なぜか?は、またの機会に書こうと思う。

….続く





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