優しさかエゴか
誰かに夢や希望を持ってもらいたいのは、
優しさなのかエゴなのか。
私が「夢を持とうよ」とついついお節介してしまう人と
この人には話さなくていいや
と介入しようと思わない人がいるのは何故?
人によって区別する私は冷たいのかと思い、
一律に接することができない自分に悩んだこともあるけれど、
それでも、この人には話さない方がいいという感覚は強固なもので、
その感覚を無視してまで、
みんながみんなに夢や希望を持ってもらうよう話をするのは違う気がする。
最近、チームMTGや1on1を通して、
夢を持ってもらいたいと思う人と、別に話さなくていいやと思う人の差が何であるのかが分かってきた。
それは、
相手に夢を持ってもらいたいという思いを伝えることが、優しさになるのか、エゴになるのかの差。
私は、感覚的に、目の前にいる人に、
夢を持って欲しいと伝えることが
優しさになるのかエゴになるのかを判断していたのだ。
私が「夢を描こう」とお節介してしまう相手は子どもが多い。
あとは、夢を持てずに悩んでいる人、トップクラスで親しい人、POOLO生。
トップクラスで親しい人は、私の大切な人だから、私の価値観を理解して欲しいという特別な意味合いが働くため例外ではあるが、
子ども、夢を持てずに悩む人、POOLO生には共通点がある。
それは、比較的夢を持とうとしていたり、夢を持つ意思があるということ。
逆に、私がこの人には話さなくていいや、と思う人は、
夢を持つ気がさらさらない人、
信じてやまない別の価値観( 社会に尽くすべき、社会は甘くない、など)がある人。
つまり私は、
夢を持とうとする意思がある人(本人は無自覚かも知れない)には、夢を持って欲しいという感情が働き、
夢を持とうとする意思が感じられない人には、その感情は働かないのである。
夢を持とうとする意思が感じられない人は、
私とは別の価値観を持っている人か、
私の伝える価値観を咀嚼して考えられないと感じる人で、
彼らに私の価値観を押し付けることは、
私が彼らの価値観を否定することになる気がして、抵抗を感じる。
私が別に話さなくていいやと思う人がいるのは、
私なりに彼らの価値観を尊重しようとしていたからだったのだ。
夢を持つ意思がある人は応援するが、
0→1のフェイズは表立ってしない。
私が豊かにしたい世界(対象)を考える参考になりそう。
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