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六花伝説


ハルノソラトキマイアガル


 これは、僕が19歳から23歳までを過ごした、学生寮についての物語である。六花とは雪の結晶のことである。冬の日本海は荒々しく、水墨画で表された世界を感じる。高校3年の2月28日、皆が卒業式を迎える前日、僕は1人特急列車に揺られて北国へ向かった。初めての1人旅である。3月1日、入試当日早朝は一面銀世界。しかし雪国ほど雪の処理が早い。全く交通には問題なく大学に着く。教室は暖かい。試験監督の先生たちも感じがよく、リラックスして受験に臨むことができた。京都へ帰る途中、普通のスニーカーをはいていた僕は、横断歩道で転んでしまった。これでもう2度とこの街に来ることはないなあという予感を胸に、また7時間の長旅に出た。2週間後、うれしい電報が届いた。「ハルノソラトキマイアガル。」高校でも寮生活を経験していた僕は、迷わず学生寮を選んだ。そして入学式3日前、新しい生活を始めるために、京都を後にした。N駅からバスで20分。海水浴場に隣接する寮は想像通り、汚かった。高校は1期生としての入学、何もかもが真新しかった。しかし、今度の寮は、いったん地震による災害で建て直されてはいるが、それでも20年はたっている。山のような落書き、はげ落ちた壁、穴のあいた天井。しかし、4年間の寮生活で寮から出ようと思ったのは、たった1回だけ。入寮後、2日目のことであった。そこのところについては、来月ゆっくり語ることにする。六花寮はA館、B館2棟、各4階建て、約300人の学生が住んでいた。4人部屋と2人部屋があった。共同浴場と共同エッセン場(台所)、大きな食堂があった。新しく建てられる寮は、だいたいが1人部屋、キッチン、ユニットバスつき。大きな集会が開けないように食堂をなくす方向にある、という話を聞いたことがある。そう、僕たちの10年先輩ぐらいなら、みんな集まって日本の今後について話し合っていたのかも知れない。そんな過激な落書きもいっぱいある。食堂の屋根の上で2つのセクトが争って、1人が死亡したとか、1階ろうか下には地下の逃げ道がある、などという伝説まで存在していた。僕たちのころはもう学生はそんな真剣ではなかった。僕たちの価値観で最も優先されるのは、楽しいかどうかということであった。そんな中、僕の4年間の寮生活が始まる。今月から12回、その4年間の思い出を語ろうと思う。今の学生たちはもう少し変わっているとは思うが、僕の学生時代(とくに寮生活を中心として)を振り返ることで、みんなに少しでも大学の雰囲気をつかんでもらえるとうれしい。

ウソコン


 六花(りっか)寮に着いて、僕が始めに通された部屋は419号室。工学部2年生の先輩が同室であった。2年生といってもひげ面ですごく大人に見えた。(後に僕と同い年であることが分かる。)その夜は近くの中華料理屋に連れて行ってもらった。ラーメンとライスを食べた。今ならそんな食べ方は絶対しないけど、それまであまりそういう大衆食堂的なところには行ったことがなかったので、何を頼んでいいのか分からなかった、というのが正直なところ。農学部3年生の先輩がそれを見て、「炭水化物ばかりとって・・・」と言っていた。みんなが大人に見えた。寮にもどると、しばらくの間、1年生は同じ部屋に寝泊まりするということで、全員せまい畳の部屋(談話室)に通された。僕を合わせて9人。自己紹介をしたとかどうとかは全く記憶にない。その後の印象が強すぎる。午後8時、全入寮生は食堂に集められ、寮歌の練習が始まった。和太鼓が大きく鳴り響く。バットや竹刀をもった先輩が床をたたきながらうろうろしている。帽子にマント、高下駄をはいた寮長がやって来た。何だか状況がつかめないまま、大正何年だかに作曲された曲を8曲ばかり歌わされる。横で、あまり一生懸命歌っていなかった1年生が後ろへ引きづられて行った。もどってきたときには頬をおさえていた。なぐられたのだろうか?部屋にもどると、これからの予定が伝えられる。午後10時半消灯、翌朝6時起床、全員でジョギングそしてソフトボールの練習。消灯前には3年生以上の先輩の部屋にあいさつに回った。すでにかなりできあがっている(酔っぱらっている)先輩から酒をすすめられる。高校のころ、少しは口にしたことはあってもそんなに飲んだ経験はない。すぐに顔が真っ赤になってしまった。(もっとも、その後いくら飲むようになっても、赤くなるのに変わりはなかったが。)消灯後、ふとんに入った僕は、こんな軍隊みたいな(軍隊がどういうところかは知らないけど)寮はすぐに出て行こうと思った。2日目も厳しい寮歌の練習は続く。他の1年生とはこっそり「早く部屋を見つけに行こう」と話していた。3日目、午後8時、入寮式。1年生は全員どんぶりばちを持って食堂に整列する。「これから年に数本しかつくられない清酒日本海をふるまう。心して飲むように。」と司会者が言う。どんぶりばちはそのお酒を飲むためのものであった。味は、少ししょっぱいがなかなか飲みやすいお酒だと思った。それまでに、日本酒なんて飲んだことなかったから、こんな味がするんだと思った。お祝いの電報が紹介された。「・・・・・・おめでとう。田中角栄」さすが大学だと思った。各階ごとに寮歌を歌う。うまく歌えないと何度もやりなおしになった。とにかく、緊張の入寮式を終え、談話室にもどった。そこでは先輩から「これから寮生規約についてのテストを行う。成績の悪いものは1週間トイレ掃除。」と言い渡された。そして配られたテストに目を通す。「大学生が10時半に寝てどうする!門限は午後12時、開門午前0時!早起きは疲れた!なぐられた1年生は本当は2年の先輩!田中角栄から電報なんて来るわけないだろ!清酒日本海は、裏の日本海からくんできた海水を煮沸し、10%だけ酒を混ぜたもの。うまかったか!・・・」1年生はみんな目を丸くしている。なんのことだかまだ分かっていない。上級生が「この3日間はみんなウソ」と言ったことばで、やっとみんなから笑いが起こった。その後、それから何度も通うことになる亀マンという居酒屋へ。そしてみんなが急速に仲良くなっていく。僕の4年間の寮生活は、こんな3日間から始まった。これを俗にウソコンと言う。だまされたら、だまし返す。次の春が待ち遠しい。(時代は移って、今は大学生でも、20歳未満の飲酒は厳禁です。気をつけてください。もっとも、当時も今も法律は変わっていませんが。)

学生生活の始まり


 我が六花寮は自治寮である。自治寮というのは、寮の運営をすべて学生が行うということだ。事務や食堂の仕事をしてくれる人たちを自分たちで雇っている。すべての決まりを学生自らが決める。学校側と交渉したりもする。僕も1年の終わりころから、A館4階の全寮委員という係についていた。週に1回、委員が集まって会議をする。その話を各階に持ち帰り会議をする。ダベリ会という会議だ。不真面目そうな名前だけど結構みんな熱く議論をする。月に1回は全寮生が食堂に集まり、寮生大会を開く。その場で、寮長や副寮長が選ばれる。当時から「学生は勉強もせず、遊んでばかり」と聞いていたが、真面目にやるときは結構やるもんだと思った。1ヶ月の寮費は6000円。(今でも1万円くらいだと思う。)食費は朝食100円、昼・夕食各200円。大学で昼食をとったとしても300円くらい。朝食は抜くことが多かったから、僕の食費はだいたい月15000円。月2回くらいお酒を飲みに行くこともあったけど、学生が行くところだから、2000円くらいで、はくほど飲める(もったいない)。だいたい月30000円もあれば生活できた。実際、後に僕は家庭教師をすることになるが、そのときは月謝をもらうだけで、十分生活できた。もちろん、大学には授業料を払わないといけない。それは、両親にお願いしていた。でもそれも、始めの年は真面目に払っていたけど、2年目からは免除してもらえるということを聞いて申請をしたら、半額になった(両親の収入、学業成績などにより決められる。全額免除もありうる)。何と安上がりの学生だったことだろう。まあ、本代だけは人並以上にかかっていたけど。さて、大学の1年生は一般教育の授業ばかりである。今はずいぶん違っていると思うけど、僕がどんな授業を受けたかを書いておこう。まず最初の1週間くらいで自分の希望する授業に登録に行く。その際、我が六花寮生は、裏ガイダンスなる冊子をいただき、どの授業が単位を取りやすいか(先生が合格にしてくれるか)、どの授業は出席をとらないか(出席をとらなければ1回も授業に出ず、誰かのノートをコピーして、テストだけ受けることもできる。僕はあまりそういうのは好みじゃなかったので、わりと真面目に授業には出ていた。おもしろくない授業は寝てるか、途中で受講自体やめてしまうこともあったけど。)などの情報を得ることができた。そんなことにも耳を傾けながら受講科目を決めた。ただし、物理学A・B・数学A・B、全部で4コマ(1コマ90分)は必修であった。選んだのは、物理学C(そのころはまだ物理が好きだと思っていた)、英語甲・乙、フランス語、哲学、倫理学、心理学、社会学、政治学、社会科学概論、体育、以上だった、と思う。さあ、この中で何か知識として今も残っていることがあるかというと、残念ながら全くない。大学を卒業してから、自分で本を読んで勉強したことの方が多いような気がする。じゃあ、大学は全く無意味かというとそうでもない。あんなにおもしろいところはない。その辺の話はこれから順番にしていきます。

バラ色の1年生


 寮に住んでいると学校に友達ができない。寮で十分満足できるし、寂しくもないのでわざわざ学校で友達を作ろうと思わない。寮にはサークル(クラブ活動のようなもの)がある。僕が入ったのは「走ろう会」。いつも走ってばかりいるというのではない。バレーボール、バスケットボール、バドミントン、ソフトボール、ときにサッカーなどいろんな球技をする、半分遊びのサークルだ。僕たちの住んでいたところは男子寮。男ばかりでそんなことしてたっておもしろくない。それで、近くの保育専門学校女子寮生と合同のサークルになっている。女の子がいると全く雰囲気が変わる。楽しい。僕はずっと共学校に通っていたから、別に女の子としゃべる機会がなかったとかいうのではないけど、でも大学生はちょっと違う。スポーツだけでなくって、よく合コン(合同コンパ・・・一緒にお酒を飲んでさわぐこと)にも行った。京都出身というのが話題性としては結構有利だった。みんな修学旅行で行っていて、また行ってみたい街ということらしい。しかし、人間お酒が入ると大胆になるもんだ。よくもまあ、あんなことを言ったりしたりしたもんだと、今になって思う。1年生のころはしばらくあまりに楽しすぎて、にやけてばかりいたような気がする。あまり具体的に書くと教育上よろしくないので?この話はこの辺で、みんなも大学生になるのを楽しみにしていて下さい。ただ、やはりこのサークルの中にもいろんな役割分担があって、いろんな会議とかもあって、結構面倒くさいことが多かった。これも大学生特有のものかも知れない。さらに日曜の朝から活動するということもあって、結局僕は1年間でそのサークルはやめることにした。でも、1年の夏休みに1回だけ夏合宿に参加した。これは結構いい思い出なので、ちょっと触れておこう。信州の山の中で1週間ばかりキャンプをした。もちろん男女は別に寝たけど。昼間はずいぶん歩き回ったと思う。夜は遅くまで語り合った。自分の理想の恋愛とかについて。大学生だなあ。それから、キャンプファイヤーもした。もちろん、フォークソングを歌う。誰かがギターを弾いている。女装コンテストをした。僕は、僕の班代表で美しく変身した。後で出来上がった写真を見ておどろいた。母親そっくりであった。女装についてはこのときを含めて4度経験がある。中2文化祭シェークスピア作「ロミオとジュリエット」でジュリエット役。高1モリエール作「町人喜劇」でリュシール役。この夏合宿。それから大学1年生の学園祭。最後のときは、近くにいた資生堂だかコーセーだかのお姉さんに頼んでメイクしてもらった。ちょっと癖になるんですね、これが。さてさて話をもどして、キャンプではもちろんみんなで食事の準備をする。決まってカレー。毎日ではないけど。料理中の写真があるけど、すごく楽しそうな顔してる。ノリに乗ってるという感じ。とにかくこの合宿の写真がめちゃくちゃ多い。何でこんなにいっぱい頼んだのかと思うほど。自分が写っていない写真まである。なぜかってそれは、お目当ての女の子が写っていたりするからなんだけど。そんな中でも一番印象に残っているのは実は夜空の星。夜中テントから少し顔を出して空を見上げた。あんなに美しい無数の星を見たのはそのときがはじめで最後だ。感動した。もう1回見てみたい。楽しい合宿も余韻を残しながら終了。後には脱力感のみが残る。僕にとってそんなに楽しい生活は、まあ半年くらいのものだった。人間、すぐになれてしまうんだ。はじめは珍しいだけ。別にその後がずっと灰色だったというわけではないけどね。

学園祭と寮祭


 大学の秋は学園祭。寮では寮祭がある。学園祭ではフィーリングカップル5対5に出た。と言ってもみんなは知らないかも知れないね。そういうのを昔テレビの人気番組でやっていたのです。見知らぬ男女5人ずつのグループがお互いにいろんな質問をぶつけ合う。その後、自分の気に入った異性の番号を押す。両思いになるとめでたくカップル完成。僕は5番で出た(5番の意味は誰か大人にきいてみて)。どんなことを言ったかはもうすっかり忘れたけど、結構受けていたと自分では思う。そうそう、自己紹介で京大理学部物理学科1年生と言ったと思う。相手の女の子は信じてしまったみたい。結局カップルにはなれなかった。後で、自分の番号を押してくれた女の子がいたらしく、その子に君ともう1人で迷ったんだけど、と言ったら、でも結局・・・さんを選んだんでしょ、と言われて、冷や汗をかいた。まだ女心が分かっていなかった(今でもたいして分からないけど)。確か2年目の学園祭だったと思う。ある無名のロックバンドがやってきた。法学部のそれほど大きくない教室がライブハウスに変身した。500円の入場料だし、ひまだったから聴きに行くことにした。僕は一番前のど真ん中に陣取った。みんな立ち見。演奏が始まる。それが実に最高にご機嫌な音楽だった。僕は一番前で汗だくで踊りまくった。ボーカルが途中サックスフォンを奏でる。その音がまたいい。横にいたサブボーカルの女性もチャーミングだった。1年後、そのバンドはメジャーデビューをはたし、サクセスストーリーを上りつめていった。名前はバービーボーイズ。今は個人で活動しているようだから、知らない人も多いだろうけど、結構売れたんです。僕は今でもよくこの話を自慢にしている。本当に1mも離れていないところで一緒に踊りまくったんだから。同じ時期、寮は寮で別に寮祭をする。仮装行列で市内をねり歩く。けっこうでかいものを、徹夜でつくったりした。僕はどちらかというと、各階の出し物(芝居)に力を入れた。2,3,4年のときには僕が演出をした。と言っても演劇部で指導を受けたことがあるとか、基礎訓練をしていたとかいうのではなく、適当にやっただけなんだけど。でも、そのころ舞台を見るのが好きでよく観て回っていた。最初に観たのが暗黒舞踏。これは印象が強すぎた。2年目の寮祭ではそれをやってのけた。その話はまた別の機会にまとめてします。その後、「夢の遊眠社」を追っかけていた。折しも小劇場ブーム。東京は下北沢、大阪は近鉄小劇場など。当日券で、2時間くらい前から並んだ。端の方で補助席だけど、一番前で観られたりした。とにかく一番前で観たかった。役者の表情をしっかり観たかった。脚本を買ってセリフを丸暗記したりした。あのスピードに引き込まれていった。ことば遊びに大いに笑った。そして最後にはなぜか泣かされていた。カーテンコールではからだがふるえた。3年目の寮祭では野田秀樹作「走れメルス」をまねて、自分で作、演出、主役をつとめた。結構あれはよかったと思うのだけど、ビデオが残っていないのが残念。確か1等賞をもらったと思う。適当に素粒子とか、宇宙論とかの話やことばを盛り込んでいたら、あれには深い意味があるんですか、ときかれて困った。適当にごまかしたけど。そんなの意味があるわけないじゃんねえ。4年目はさすがに全部自分でやるのは疲れて、1年生に脚本を書かせて、今度はやはり遊眠社の「半神」をまねて僕が演出をした。大幅に下ネタを取り込んだけど。まあ、そんなこんなで毎年楽しい秋を過ごしていたわけです。

危ない体験


 今回は寮から離れて、僕の危ない体験について語る。1年生の春休み、僕は東京まわりで実家に帰った。東京からは大垣行き夜行。キップはもちろん「青春18キップ」。お金はないけど時間のある学生の特権。思いこみというのは恐ろしい。夜行の場合、前日のキップは翌朝下車するまで有効と思い、車掌が検札に来たときもそう言い張り、押し通してしまった。さて、東京では電車が出発する時刻まで時間を持てあましていた。僕は有楽町のマリオンにいた。そこには大きなホールがある。たまたま舞踏フェスティバルをやっていた。大野一雄、土方巽、大駱駝艦、ダンス・ラヴ・マシーン・・・そのときは全く何のことか分からなかった。でも、すうっと引き込まれていった。その夜は白虎社の舞台。当日券は確か3500円くらい。当時の僕にはそれだけのお金を払うのはかけに近かった。でもなぜか当日券の順番を待つ列に並んでいた。補助席ではあったけど、一番前に座れた。マルパというバンドの大音響で舞台が始まる。横にはなぜか、尺八、琴、三味線、それに義太夫の人までいた。そのアンバランスさがおもしろかった。舞台の上は何やら体を真っ黒にぬったゴキブリのようなものがごそごそ出てきた。次は裸で体中真っ白の女の人たち。とにかく舞台せましと動き回っていた。棺桶を割って現れたのは蛭田早苗。ずっと白目でおどろいた。ふと舞台奥を見るとグランドピアノの上に横たわる大須賀勇。とにかく驚きの連続であった。20才の僕には衝撃が大きすぎた。しばらくはボーとしていた。アンケートにそのときの気持ちを書いて、京都の実家の住所電話番号を書いた。2年の夏、僕は実家で暇を持てあましていた。そこへ白虎社から10日間の合宿に参加しないかという誘いの電話。当時は費用が3万円(その後急激に高くなった)。ひまだし、そんなに高くないし、行ってみることにした。米と梅干し持参で合宿参加。集合場所に来た迎えの人は丸坊主、眉毛がない、こわそう。僕らはトラックの荷台に乗せられて廃校になった小学校に連れて行かれた。場所は和歌山県の山奥。朝は6時起床でマラソン、帰りに山菜をつんでくる。料理は当番制。朝食は一汁一菜、五分がゆ。その後、まき割りをしたり、ゴミ捨て用の穴を掘ったり、練習用の丸太を壁につけたり。それから、小さな講堂らしきところで稽古が始まる。基本は野口体操から。体をくにゃくにゃにする。体のかたい僕には何ともきつい。でもおかげで1週間で体はすっかり引きしまった。昼食は一汁二菜、七分がゆ。午後は真ん中にろうそくを立てて顔の表情の練習。大きな顔、小さな顔、笑った顔、怒った顔、泣いた顔。動物のまねもした。サル、ウマ、鳥・・・。男子は風呂なし。水のシャワーを校舎の横で浴びる。夕食、一汁三菜、ふつうのごはん。ずっと肉はなし。夜にはいわゆる文化人が話をしに来る。その中には後に有名になった漫画家の蛭子能収もいた。さて、5日くらいが過ぎたある日、僕らはまたトラックで川の岩場に連れて行かれた。いきなり断髪式を宣言される。そこで逃げ出したものが何名か。僕はモヒカンにしてもらった。さすがに眉毛はそらなかったけど、そった人たちは人相が変わっていった。体中を白く塗りビデオ撮影。ちょっといい気分。それから3日目くらいに村の人たちをよんで舞台発表。もちろん舞台づくりも衣装も自分達のお手製。グループごとに出し物の練習。リーダーの大須賀さんの許可が出たのは夜中になってからだった。僕たちは油でのばした金粉を体にぬった。舞台では女の子をかついでぐるぐる回すのだけど手がすべって大変だった。でも、何だか快感。その後、打ち上げ。ここで初めてアルコールが登場。肉まで出てきた。1週間で引きしまった体がまたもとにもどった。そんなこんなで危ない合宿は終わった。帰り道。はじめは変な頭の連中ばかりいっしょにいたからあまり気にならなかった。でも、1人になって電車に乗っていると、まわりの視線がぐさりと突きささる。子ども「アッ、ウルトラマンだ。」母、おびえながら「これ、やめなさい。」家に帰ったときの家族のおどろきようはもっとすごかったのかなあ。その年の秋、寮祭でいやがる1年生をかつぎ出し、みんなを真っ白にしてしまった。僕の髪と眉毛はきれいになくなっていた。学生だからできたんだなあ。

ウソコン2


 また新入生をだます季節がやってきた。2年生のとき、僕はふつうに優しい先輩役をしていた。友人がニセの1年生をした。態度が悪いということで他の1年生の前に出されてしかられた。するとそのニセ1年はくすくす笑いだした。他の1年生はびくびくしている。「人が真剣にしかっているのに何を笑っているのか!」「僕、緊張すると笑うんです。」後ろで聞いていた僕たちは笑いをこらえるのに必死だった。そのニセ1年はしばらく姿をかくした。1年生はきっとほっとしていたのだろう。3年生のとき、僕はちょっと危ない宗教にはまっている先輩役になった。1年生たちが寮歌の練習をしている。僕は「ちょっと歌の練習にも疲れただろう。体操でもしてみないか。」と持ちかけた。そして、大声を出しながら体を上下にふるわせた。(実はこれは1年前、白虎社の合宿でやった体操だ。)そこへ2年生。「先輩、今それはちょっとまずいんじゃないですか。」「そうか。」僕は出ていった。その後その後輩が「あの先輩、最近危ない宗教にこっていて・・・。」同室になっていた1年生はすごく恐れていたようだ。4年生のとき、1年生が寝静まったころ、僕は大声を上げて廊下をかけぬけた。後輩、「先輩が大変だ、薬持ってこい!」僕は洗面所で薬をもらって、それを飲み発作がおさまった・・・ふりをする。その後、4年生が1年生の寝ている部屋に行き、「さわがして悪かったな。彼の部屋で、去年自殺したヤツがいて・・・」と、ちょっとこわい話を続ける。などなど、春は本当に楽しい。今でもぜひ参加したい。だまされる方はいやだけど。それにしても、ニセの1年生とか、酒ぐせの悪い先輩とか、いろいろな役がらを毎年決めるんだけど、それを全寮の上級生が知っていなければいけない。それを前もって連絡し、1週間くらい前から打ち合わせをしているのだ。300人くらいがいっせいに100人をだます。何と手のこんでいることか。これも大学生ならではだろう。僕たちは、年に数回全寮的なコンパ(飲み会)を行う。夏休み前、寮祭のとき、卒業前。そしてそのたびに大酒を飲み、大声で寮歌を歌う。近所の人が警察に通報し、何度もしかられた。寮歌を歌う前にストームというかけ声がある。「ヤーヤーヤー、遠からんものは音にも聞け、近くばよって目にも見よ、我こそは・・・の男の子なり。今宵は・・・を祝し、ささやかなるストームをささげんものなり。歌わんかな、歌わんかな・・・、アインツヴァイドライ。」と歌い出すのだ。寮歌だけではなく変な歌も歌った。「リンゴの歌」1番はそのまま、2番は「リンゴのリの字を・・・に替えて」これも、教育上よろしくないので、みんなが大学に入ったら教えてあげよう。いろんなバージョンがある。さて、このストーム。自分も飲んでるときはいいのだけど、自分は寝ていて、他の連中が酔っぱらってやってくるとうっとうしい。イヤな思いもいっぱいした。それでも卒業してからは結構なつかしくもあり、我々寮生の結婚式ではいつもこれをやる。先日も、友人の結婚披露宴でこれをやってきた。スピーチとかカラオケとか誰も聞いていないようだった。だから、僕は思いきってマイクを外して「ヤーヤーヤー」とやってみた。そしたら結構、みんなこちらを向いてくれた。結婚式の後、数人で通い慣れた「亀マン」という居酒屋へ行った。当時でも、かなりのおじいちゃんがやっていたから、今でもやっているかどうか心配だったけど、ちゃんとのれんが出ていた。中に入って、食べ慣れたトマト煮を注文した。お店の人によると、このトマト煮、21世紀に残したい味に選ばれたのだそうだ。それが、テレビだか雑誌だかに出たとのこと。そのせいだろう、お店には若い女性ばかりのグループが2組も来ていた。以前はむさ苦しい男子学生ばかりだった。そのとき僕より1つ下の後輩に初めて聞いた。ウソをばらした後この「亀マン」で飲んでいたら、しばらく姿をかくしていたニセ1年がひょっこり現れた。「何でこいつ今時分こんなところに来るんだ?!」と思ったそうだ。そうそう、ニセ1年のことは最後までかくしていたんだ。

アルバイト


 大学生になると、法律に反しない限りたいがいのことは何でもできる。車の免許を取る。酒、タバコ(法律に反している。いまはダメです。30年前はゆるかった。)。パチンコ、競馬などをはじめ賭け事。徹夜のマージャン(最近はしないかも知れないけど)。もちろん勉強、議論。そして恋愛。アルバイト。僕の場合は、免許は取ったけど車には乗らない。酒はほんの少し。タバコは大嫌い。賭け事も大嫌い。マージャンもお金を賭ける(法律違反)から嫌い。勉強は好きなことはやった。恋愛は・・・?では、今回はアルバイトについて書いていこう。一番いいのは家庭教師。僕も最初からその仕事を探していた。でも、そうそうすぐに見つかるものでもないので、1年生の間は単発でいろんなことをした。だいたいは荷物運びなど肉体労働。催し物があるとき、夜中に会場設営に出かけたりした。海が近くで、ボードセーリングの大会があった。そのときは、3時間くらい小さな船に乗って監視役を務めた。船頭さんに船の上からするおしっこの仕方を教えてもらった。(ウンコでなくて良かった。)車の通行数のカウントをする仕事もあった。何のためにするのかも良く知らないけど、道角で何時間も車が通るたびにカウンターを押した。(結構適当にやってたけど。)僕はやってないけど、友人たちはよくコンサートの会場警備にあたった。観客が前に出て来ないようにロープを張って手で押さえないといけない。ロックグループの顔は見えないけど、演奏は聴けると楽しそうだった。ツアーコンダクターの仕事もあった。高校生の修学旅行などについて行って、これも結構楽しそうだった。これは、アルバイトとは言えないけど、こんな体験がある。寮に住んでいたから、寮内放送で、小さな子どもが手術をするとき血液が足りなくなるのでA型の人は献血に来てほしい、ということを聞かされた。僕は暇だったので、また結構献血は好きだったから、近くの大学病院まで行った。2週間ほど前に大学で献血をしたところだったので、僕は200ccしか抜いてもらえなかった。他の連中は400ccだった。これがあとになって効いてくる。実は手術も成功ししばらくたってから、寮にお礼を持って来られた。(これはあまり公にしてはいけないことかも知れないけど)そのお礼は200ccあたり1万円というものであった。予期せぬ収入に喜んでいいものやら、はたまた400cc抜いておけば2万円だったのに、なんてことも考えた。この話には後日談がある。それからしばらくして、また寮内放送があった。今度は大学の教授(次期学長という人だった)が手術をするので血液が必要とのこと。僕は血液型が違ったので行かなかったが、この前の話を聞いていた連中はお金目当てに我も我もと集まった。しばらくたってお礼が届いた。菓子折だけだった。ちなみに、その教授は手術がうまくいかず、その後亡くなられた。さて、2年生の秋にやっと家庭教師の話が来た。中3男子。受験前。僕はちょうど寮祭が終わった頃で頭を丸坊主にしていた。それがちょっと気がかりだったが、あとから聞くと向こうは僕が少林寺でもしているのかと思っていたらしい。僕は始めての指導で、「高校への数学」なんかを買ってきて手書きのプリントをつくるなど一生懸命取り組んだ。結局、県ナンバー1の公立高校には合格できなかった。発表の日は自分のことのようにつらかった。最後に、「宇宙をかき乱すべきか」(ダイソン著)という本をプレゼントした。僕が物理学を専攻しようと決めるきっかけになった本だ。年度がかわって3年生になると、また別の生徒から希望があった。中2男子。今度はオール2くらいのあまり出来のよろしくない生徒。素行が悪いということではなかったので、気楽ではあった。とにかく、かけ算の九九が7,8の段になるとあやしい。一対一で教えていても居眠りをする。何度背中をたたいたことか。かなり大きな声も出していたと思う。それでも、その家のお父さんはその様子を見聞きしていて、僕のことをわりと気に入ってくれた。クリスマスのパーティーに呼んでもらったり、お寿司を食べに連れて行ってもらったり。(そのとき初めて本当に寿司がおいしいと思った。とくにあまエビ。)結局その生徒は市内で最下位の私立高校に行った。最後に、「ご冗談でしょう、ファインマンさん」という本をプレゼントした。結構、喜んでくれた。読んでくれたかなあ。

学ぶということ


 学生時代、僕はいつも遊んでいた、というわけではない。ある程度勉強もしていた。たぶん人並み以上に本も読んだ。寮に住んでいたからいろんな考えを持った人といろんな話をした。ちょっと過激派の人(その人自体は全く過激ではなかったけど)と議論もした。理学部にはナイーブで内向的な人が多かったから、学生運動の名残のようなことをしている人たちの部屋につれて行かれたこともあった。その活動に参加するというサインをする前に出てきて、2度とそこへは行かなかったけど。僕は高校生のとき物理学(特に素粒子論)がおもしろいと思って物理学専攻を選んだ。ハイゼンベルグとかフェルミとか朝永振一郎などの名前にあこがれて進学した。素粒子の研究から宇宙の起源にまでさかのぼろう、なんていう壮大な夢を持っていた、と思う。ところが大学に入ってすぐ、それははかない幻想であるということを知った。最先端の研究に行きつくまでに、何と多くの基礎的、古典的な勉強をしなければならないことか。僕はもう大学1年生の数学の授業でほとんどあきらめてしまった。何のことかさっぱり分からない。テストでは0点を取った。(でも60点で合格だった。大学とはそういうところ。)おそらく物理学の大きな森に足を踏み入れた僕は、1つ1つの木にばかり目をやり(目をやらされ)全体を見ることを忘れてしまったのだと思う。2年生になる頃には、人文学部の方へ顔を出すことが多くなった。週に1回は科学基礎論のゼミに参加した。そこで哲学のおもしろさを学んだ。学生時代もっとも刺激を受けた講義の1つが村上陽一郎先生の「科学思想史」だ。2週間の集中講義だった。その授業は、どこからどこまでが本筋で、どこが余談なのかがはっきりしない。どんどん話に引き込まれていく。僕のノートはメモでぎっしりつまっている。今でもそれは僕の宝だ。その後も、週2回くらい科学史・科学論の読書会などに顔を出した。そこでお世話になった、当時助手の井山弘幸先生には今でも年賀状のやりとりなどさせていただいている。物理学科の先生とはもう全くつながりがないのに。大学院もその方向に進もうと思って勉強した。とても高いハードルだったけれども。(受かっていればたぶん、「現代思想」なんかにもっと難解な論文でも書いていたのかなあ。)さてでは物理学のことはもうすっかり忘れてしまったかというと、そういうわけではない。3年生のとき、やはり集中講義で、澤田康次先生の「生体物理学」という授業を受けた。これが自分に大きな影響を与えたもう1つの講義だ。(どちらも我が母校の先生ではないのが残念。そして2人とも後の仕事でまたお世話になった。)話は対流や化学反応のときに自然にできる構造から始まり、半端な次元、そしてカオス・フラクタル、さらには発生生物学に及ぶ。ゴキブリのあしをちょんぎって、180度回転させてくっつけると、横から余分に2本のあしがはえる、というはなしはこのとき初めて聞いた。感動した。後に岡田節人先生の本などを読みながらもっとおもしろい話がいくつもあることを知った。そして、初めて生物学がおもしろいと思った。それから、イリヤ・プリゴジン先生の1冊5000円位する本(みすず書房)を2冊買い、一生懸命読んだ。今ではそんなこととてもできない。たぶん、そのころ初めて、全く知らなかったことを知る喜び、というものを知ったのだと思う。自分から勉強する(やらされ勉強ではなく)ことの大切さを知ったのだと思う。そして、そういう気持ちだけは今でも持ち続けている。それが一番大事なのだと思う。(それを小中学生の君たちに今求めるのはちょっと無理なのかも知れないけど、でもそれを伝えていきたい。)蛇足。せっかくだから高校時代に影響を受けた先生の話もしよう。倫理社会を担当していた当時大学院生の庭田茂吉先生。授業はギリシャ哲学から始まり、カント(1700年代)あたりで終わってしまった。余計な話が多かった。でもそこで読書のおもしろさを知った。先生は「とにかく1人の著者の本を通して読んでみると、その人の世界が分かっておもしろいよ」と言った。僕は新潮文庫でちょうど手ごろな冊数だった安部公房を選んだ。通学途中の電車の中で読み続けた。最近、学校の先生にいろいろと期待がよせられるが、一生のうち2,3人でも、自分の心の琴線にふれる先生と出会えれば、それで十分幸せなのではないかと思う。

自殺


 今月は少し重たいテーマ。僕が学生時代に出会った2つの自殺について書く。1つめ。それは、夜行会のあった日の午後だったと思う。夜行会というのは、寮生が徹夜で歩き通し、朝方40kmほど離れたところにある弥彦山をかけ上るというもの。途中みんなでわいわいさわぎながら歩くのでアッという間といえばそうなのだけど、でも帰りはみんなぐったりしている。寮にもどるとみんな熟睡体制に入る。寮内は真夜中のようにシーンと静まり返っている。(いや真夜中はいつも騒がしい。)その日の午後、遠くの方からかすかに救急車の音が聞こえる。その音で僕は深い眠りから覚める。どうやら、この寮に着いたらしい。誰か具合でも悪くなったのかなあ。いつの世にも、どこにでも野次馬という人がいるもの。すぐに走って見に行ってくれた。誰かが屋上から飛び降りたらしい。即死。夕飯を食べに行ったとき、食堂のおじさんに言われた。「今日のあれ見たか?なんや、見んかったのか。あんなもんはなかなか見られるもんやないんだから、見とけばよかったのになあ。」そのおじさんの話では、その死体は顔面から落ちたため鼻がもげて血みどろになっていたらしい。ひどい顔だったようだ。あとから聞いた話では、自殺したのは別の階にすんでいた1年生。2浪してやっと大学に合格。それからまだ3ヶ月くらいしかたっていなかったはず。俗に言う5月病というものだろうか。自分が思い描いていた学校とはずいぶん違ったのかも知れない。何のためにこの2年ないし3年必死にがんばってきたのか、そう考えるとやりきれなかったのかも知れない。何が原因か本当のところは分からないけど、身近に話のできる人がいれば良かったと思う。2つめ。こちらは寮生ではない。同じ学年の数学科の学生。いつも1つ上の階で勉強していた人だ。たぶん、1年のころ数学の授業では同じ教室にいたのだと思う。彼は教室の窓から飛び降りたらしい。僕たちが授業を終えて、理学部の玄関を出るとすでに救急車は止まっていた。その横に毛布を掛けられた彼がいた。あとから聞いた話。物理学科の先輩が教室で授業中、ボーッと窓の外をながめていると、上から落ちてくる彼と目があったらしい。そう思っただけだとは思うけど、それはあせるだろうなあ。自殺の理由は全く分からない。単に僕が知らないだけかも知れない。2人とも、自分の近くではあるけど、直接の知り合いではなかったので、そんなに僕自身がショックを受けたというわけではない。でも、そういうことがあると、いったい人間の生命というのは何なんだろうと考え込んでしまう。自らの生命を絶つということは許されることなのだろうか。小中学生でもイジメなどが原因で自らの死を選ぶ人たちがいる。マスメディアでも大きく取り上げられる。でも、おそらく大学生の自殺の方が数は圧倒的に多いのではないか。(統計的な資料は持ち合わせていないが。)それは、大学生の時期に初めて自分自身について深く考えるようになる人が多いからなのだと思う。自殺が許されるかどうかは僕には答えられない。だけど、あとに残った人のことを考えるとやめた方がいいとは思う。僕自身は結構落ち込むことが多いけど、すぐ立ち直る、これが自慢。よく思うのだけど、楽しいことをプラス、つらいことをマイナスで数えると、一生通しての平均は皆プラスマイナスゼロになるのではないか。楽しいことばかりは続かないけど、逆につらいことが続けば次にはいいことも待っている。そんなふうにでも考えると、ちょっとは気がまぎれる。それと、同じ状況に置かれても感じ方が人によってずいぶん違うもの。他人のことを考えるときそこのところは気をつけた方がいい。相手はすごく傷ついているかも知れない。そしてそれは気持ちの持ちようでずいぶん楽になれるのだということでもある。とにかく、生きていることがつらくなることがあったら、自分1人で悩んでいないで、誰かに話をすると良いと思う。それで余計に落ち込まされることも無くはないけど、良く探せば必ずちゃんと聞いてくれる人がいる。もし見つからなければ、専門のカウンセラーに会おう。大学には必ずそういう人がいる。そういえば、大学でも保健室登校という学生がいるらしい。最近の新聞に取り上げられていた。今はそういう時代なんだろう。

親友Sについて


 僕の親友Sについて書く。多分僕にとって親友と呼べるのは彼1人だと思う。何をもって親友と呼ぶのかはよくわからないけど、どんなことでも遠慮なく話せるのは、僕にとって彼1人だ。彼とは大学の寮で知り合った。同じ階で4年間暮らしていた。最初はそんなに引かれるものがあったというわけではない。どちらかというと、地味で僕とはちょっと合わないとさえ思っていた。それが何がきっかけかは分からないけど、何でも話し合える仲になっていた。たぶん1年の秋に2人で東京に出かけて、群馬の彼の家に泊めてもらったころからだと思う。Sはあまり要領のいい人間ではない。人一倍真面目で、授業にはきっちり出席していた。他人の分まで出席カードを書いたりして、一番前で一生懸命ノートを取っていた。試験前には、みんなにそのノートをコピーさせていた。そして、コピーで勉強した連中はみな合格、Sだけが不合格だった。本当に人がいい。(人がいいというのは決してほめ言葉ではない。)寮に電話が入って、どんな話だったか分からないけど、高いパソコンを買わされていた。その後うまく活用しているという話は聞いたことがない。スポーツはほとんどしないし、体はあまり強い方ではなかった。ある日、寮に救急車がやってきた。どうしたんだろうと思っていると、Sが倒れたという話が舞い込んできた。僕と数名の友人がすぐに救急車を追いかけた。病院には点滴を打ってもらって、少し気分が良くなった彼がいた。食堂で食事中に気分が悪くなり、自分で救急車を呼んだという。何で人に頼まなかったんだろう。僕たちは彼をウーロンSと呼んでいた。その呼び名には少しバカにしているようすを感じるかも知れないけど、たぶん僕を含めてみなそんなことは全く思っていなかったと思う。Sの部屋はたまり場だった。みんなが安心できる場所だった。僕たち(A館4階にすむ同学年のメンバー8人のうち4人くらい)は集まってお酒を飲むわけではない。お菓子を食べながらウーロン茶を飲んでいた。テレビを見ながら、毎日大して内容のない話を繰り返していた。彼がテレビを先輩から譲り受けるまでは、僕とSはいつも1階テレビ室でドラマやベストテン(歌番組)を見ていた。彼の部屋にテレビが入ってからはそこに入り浸っていた。僕の部屋にはテレビがない。自分の部屋では本を読む。僕は他人が自分の部屋に来ることをあまり好まない。勝手なもんだ。Sは鉄道研究会に入っていた。いわゆる「ド鉄」だ。しかもアイドルが好きだった。彼女はいない。僕は彼とよく本屋やスーパーなどに買い物に行った。あるとき、たまたま彼は1人でスーパーに出かけていた。その日、岡田有希子は飛び降り自殺をした。Sはファンクラブに入っていた。自殺のことなど全く知らず、スーパーに来ていた他のアイドルを追っかけていたらしい。帰ってきてその話を聞いた彼はしばらく暗い部屋にたたずんでいた、と思う。Sは一浪して経済学部に入った。僕は高校で1年休学しているので同い年だ。彼の地元では旧1期校ということでけっこうこの大学に入ったことをよろこんでいた。僕は共通一次の結果がよくなく、何とか入れる所を探して行った。島流しにあったような気分だった。(今は彼と会えただけでもこの大学に行って良かったと思っている。)Sは全国区ではない銀行の東京にある本社に勤めることになった。会社の寮に入った。僕は大学院の試験に失敗し、東京神田にある小さな出版社に勤務することになった。4畳半1間、風呂なしのアパート暮らしを始めた。それから3年間、僕は東京でおよそ1ヶ月に1、2回の割合でSと落ち合った。2人ともそんなにお酒が飲めるわけではなかったけど、おしゃれな雰囲気は好きだったので、いろんなお店を探した。まわりがカップルばかりのなか、男2人でしゃべりまくった。Sと2人のときには僕は急におしゃべりになる。彼はどちらかというと聞き役のことが多かったかも知れない。欲求不満がたまっていたかも知れない。なぜかしら、素直に話をすることができた。Sと出会った日はしゃべりすぎて舌がだるくなるくらいだった。東京でも彼は怪しげな宗教にはまりかかった。高価な絵を買わされていた。英会話の会員になるため高額を支払っていた。決して彼は、だまされたとか思っているわけではない。僕が勝手に心配しているだけだ。本当に人がいい。(親愛の意味を込めて。)Sと僕にはどんな接点があったのだろう。なぜ引かれて行ったのだろう。たぶん彼がすごく優しかったからだと思う。すごく一方的な気持ちなので、僕はSに、僕のことをどう思っているのかを聞くのが少しこわい。僕が京都にもどってからも、年に1回くらいは会うようにしている。電話でもときどき話す。次に会うのは彼の結婚式のはずなんだけど、いつになることだろう。

卒寮


 僕は4年生になっても今の大学生のように就職活動に熱心だったわけではない。バブルの少し前だったけど、そんなに就職難というわけではなかった。というか、まず就職するなんてことを全く考えていなかった。自分のやりたい勉強をもっと続けたかった。以前にも書いたけれども、僕は大学で物理学科に所属しながら人文学部の科学史の先生の所へよく足を運んでいた。大学院に進学してその続きがしたかった。当時、科学史の講座を専門に行っているのはT大くらいしかなかった。募集は6名。日本全国から集まる。とりあえず受けてみた。受かるはずもないのだけど、5時間くらいかけてドンコウでわざわざ発表も見に行った。受験をすれば誰でもひょっとしたらと思うもの。でも、ひょっとはしなかった。しばらくはボーとしていた。ふらふらと見知らぬ町をさまよっていた。自分はこれからどうふるまえばいいのかと思いをめぐらしていた。ある本で、I大で物理学史をやっている人がいるということを知った。募集要項を取り寄せた。そこも受験するつもりで受験料を振り込んだ。その帰り、いつも行く(大学に行く日はほぼ毎日)大学生協の書店に顔を出した。そしてよく買っていた月刊誌を購入した(「数理科学」)。最後のページに編集者募集とあった。僕は運命だと思った。(後にほぼ毎年同様の募集記事が出ていることを知るが。)次の日、履歴書を送っていた。2日後、面接の通知が来た。社長と、専務と、雑誌の編集者の3人が面接に現れた。僕は生意気にも、「高温超伝導の特集は組まれないんですか?」などと言った。次の日、速達が届いた。採用通知。僕の就職活動は終わった。たった1週間のことだった。I大は結局受験しなかった。今でも受験しておけば人生変わっていたかもしれないなあ、と思うこともある。僕の将来の夢は3つあった。大学の研究者。高校の教師。編集者。その3つ目をとりあえず(とりあえず)選んだ。9月の終わりのことだった。それからの半年は何をしていたのかもほとんど記憶にない。少しは旅行をしたかも知れない。15000円で新幹線でも何でも乗り放題というキップがあった。本州の最北端までは行ったような気がする。北海道には渡らなかった。時間はあるけど、お金がない。海外に卒業旅行に行った友人もいた。卒業が近づくと理科系の学生はたいがい実験などで徹夜をすることも多かった。でも僕のいた学科には卒業論文・卒業実験というようなものがない。学部の学生くらいでは論文なんて書けっこない。実験するったってオリジナルなことはできっこない。たぶん、そういうことなんだろう。僕は理論のゼミに所属していたから、実験もしないで、週2回、英語の専門書を読んでいただけだ。だから自分には専門性が全くない。研究のスタイルということも全く分かっていない。僕はそういう自分に自信がもてなかった。卒業してずいぶんたってからすてきなことばと出会った。「学問のファン」(岡田節人先生が書かれていた。)僕はそのことばと出会ってやっと肩の荷が下りたような気がした。専門性がなくてもよい。浅く広くいろんなことに首を突っ込もうと考えられるようになった。それから本当の意味で知ることが楽しいと思えるようになったのだと思う。そして、その気持ちは今も持ち続けている。学生寮では卒業前に追い出しコンパ(追いコン)というのをする。そこに友人が家からカラオケセットを持ち込んだ。はじめは楽しくやっていたが、途中別の階の住民に占領されてしまった。僕はそこでちょっとした言い合いをしてしまった。お酒はたっぷり入っている。頭に血が上った瞬間、僕の意識は遠のいた。ほんの数秒だったかも知れない。でも僕にはかなりの長時間に感じられた。「救急車を呼ぼう」という声で目が覚めた。「救急車はイヤだ。」僕は部屋にもどってベッドにもぐり込んだ。しばらくの間、言い合いをした友人とは口がきけなかった。いやな思い出。でもその後もちゃんとつきあいは続いています。双方の結婚式にも出席しました。卒業式では大きな声で学生歌を歌った。ふつうの学生は知らない。歌えるのは寮生と合唱団くらいだろう。その後のパーティー(謝恩会)には出席しなかった。学校にはそれほど親しい友人はいなかった。寮にもどっても、まだ誰も帰っていない。少し取り残された気分だった。少し寂しかった。不要になった本や家具類を後輩に譲った。寮の壁に新しく1つ落書きを書き加えた。「Remeber your humanity and forget the rest.」いよいよ、寮を去る日がやってきた。Sと一緒だ。僕は東京での1人暮らしに少しの不安と、大きな希望をいだいて、4年間住み慣れたN大六花寮をあとにした。
それから20年。(いや、もう30年以上になる。)


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