協調性が無いって罪なこと?
どこに行っても「大丈夫かな?」「迷惑かけないかな?」と悩んできましたが、こんなに考えることで悩まなくなりました。
私の子育てで感じたことを書かせていただきます。
子どもに発達障害がある時、「協調性がない」ことがさも問題のように「協調性の欠如」という言葉で表現されます。
親は、いろいろな場所で周りに馴染めずにいること、逃げ出したり、騒いだりすること自体を問題だと思って、賢く過させないといけないという気持ちが働くんです。「うちの子は賢く待てない」分かっていても、気持ちの理解に苦しむと強制的何とかしようと頑張ってしまうことがあります。もしくは、困る状況を完全に避けて生活しようと考える場合もあります。
でも、賢く過ごせないのには理由があって、周りに合わせられないことや周りの状況が分からないことは、平衡感覚の弱さや感覚の混乱からまずそんな余裕なくて当たり前なんです。
例えば、マッチョで筋力に余裕がある人は「荷物を持ちましょうか?」などの気遣いができるかもしれませんが、か細い人に同じ気遣いを求めるのは難しいことです。
筋力の少なさはや体の使いにくさが、ひと目で理解される肢体不自由児は身体的にできることを強要されず辛いことは少ないです。グレーゾーンの子どもも、体幹、平衡感覚が弱いことやボディイメージが弱い子どもが少なくありません。でも、当然できるだろうと思われて辛いことがあります。落ち着きが無く動き回るのは、筋力や感覚統合の弱いせいでもあります。じっとすることや、ゆっくり丁寧な動きは体幹がしっかりしていて、筋力があるからできていることです。ゆっくりな動作が苦手で、丁寧にできなくて乱暴になるのも当然なことなんです。
体幹、平衡感覚が弱い時に、視覚の情報を得ることや処理することも苦手になります。常に、余裕のない忙しい状態で聴覚の情報、音や言葉を聞きわけながら、相手の表情を見て気持ちまで配慮できる余裕はありません。いかに自分を守ろうか、受け取る情報を制限したい、限界が来たら逃げ出そうと考えていて当然なんです。
協調性が無いのは当たり前です。「協調性のある子にしたい」と考えることはいくつもの問題を飛び越え過ぎて一つも問題解決につなりません。
あと、その場しのぎの対処法で、子どもの気を反らしてごまかして過ごさせるのは、どうしてもという時には仕方ないですが、日常的な対処法としてはせっかくの経験が本人の成長に活かされません。
できることは、
日常的に 「安定する体づくりをすると事」
その時に応じた 「情報整理のお手伝い」 「想像力の提案」
を地道に続けるしかありません。個人の情報処理に限界があるので、ストレスを受け続けてパニックになるよよりは支援学級や支援学校等、人数が少なくて授業ができるや授業の進行のスピードがゆっくり等の選択肢も、親のこだわりより子どものための選択が必要です。
どんな子育ても、悩みが多くすぐに結果の出ないものだと思います。発達や成長を望むとき、良かれと思っても子どもを追い立てて慌てさせては、混乱しながらも状況を受け止めようとするのを、かえって邪魔していることがあるんです。
母親が子どもの発達で悩んでいる時に、表面的な問題の捉え方で助言することで、母親と子ども両方を焦らせて追い詰めてしまうことがあることを知っていて欲しいです。