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「知は力なり、ただしそれは開かれたものでなくてはならない」これは、29年前に、湾岸戦争でエジプト留学をあきらめた当時大学生であったわたしが世界の理不尽さに対して心に深く刻んだ、初めて自分で考えたクレドでした。
人間の愚行(自分もその中のひとりですが)をみるたびに、いわゆる科学(軍隊、原子力もしかり)や情報(知識)などの「知」を持った頭がいいとされる「一部のエリートや権力者」に疑いを持つようになりました。
そのサミット(頂上)では、限られた少数の人たちが、しかも秘密裏に、みんなの´ため’を語りつつも、結局は自分たちのせまい了見だけでで、自分たちのこと´だけ’’を考えて物事を決めている。
古今東西をとわず、「知」を持つ者の力は強大です。そもそも神話時代から、力をいかに正しく使うかが物語のひとつの大きなテーマになってきたことは間違いありません。
では、逆に、世にいう賢人や勇者が「常に」正しく力を使えるのでしょうか。ある程度以上、それらの人たちが世の中で適切に力を使ってきたことは認めます。
しかし、世界で数名の核ボタンを持った人が存在しているという現状を許していいものなのでしょうか。わたしは、いくら衆愚(政治)だといわれようと、世界のサミットの10数名より77億人の総意のほうが正しいと思います。
みなさん、すでにうすうす感じていると思いますが、たいがい頭のいい人だけで考えたことより、われわれ「平の人(by片倉もとこ先生)」が考えたり思っていることのほうが正しいです。
思えば、30年ほど前から、グレートなんとかという「サミット」とか「世界賢人会議」とか、そのような権威主義で自分をグレートとかサミット(の人)だと思っている人たちと闘ってきたような気がします。
もちろん、ひとりひとりの人間としてすぐれた人たちを尊敬もしていますし、尊重しています。ただし、その言っていることややっていることがすべて正しいとか、われわれが従わなければならないと考えることはありえません。
なぜなら、人はそれぞれの価値観、平たくいうと「しあわせ」感が異なるからです。もちろん、それは重なるところはあっても、まったく同じものであることはありません。
それでも最低限、合意できることがあるのではないか。人として譲れないところがあるのではないか。それを安直に、誰かが語った言葉におきかえてはいけない。自分自身の言葉を手放してはいけないと思います。
国際共創塾は、20年前に「歩きながら考えるー´世界’と´開発’」というキャッチフレーズで、「歩く仲間」という二枚目の名刺(本が出る前から使っています)をもって世界中の仲間と語らってきたことの集大成です。
「地域開発と参加」の世界的な一人者でありたいと日々研鑽しているしばやんが、あなたとつくる「世界一の共創プラットホーム」の構築に、あなたの力をかしてください。よろしくお願いいたします。
2020年10月2日 歩く仲間代表 柴田英知

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