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開発民俗学私論(その1) B077 <2007年5月13日(日)>

はじめに


今まで、‘発民俗学への途’という集中講義を書いてきたが、ほぼ第1期の目処がついたので、方法論・各論へと入ろうと思う。この連載では、私自身の問題点の整理を一義的に考えているため、かならずしも結論があるわけではない。ただし、問題意識の立て方やアプローチの仕方で参考になることもあるのではないかと思う。当然、読者諸賢の批判的なご意見も賜りたいと思っている。

http://arukunakama.life.coocan.jp/r0000.htm

社会保障制度考


今、(日本の)社会福祉関係の分野の教科書*を読んでいる。主に‘貧困’概念の整理、貧困把握の仕方、公的扶助論、セイフティネットの考え方について、社会福祉ではどう考えているかについて調べたいというのが理由である。
*岩田正美、岡部卓、清水浩一編 『貧困問題とソーシャルワーク』 有斐閣 2003
非常によい教科書だとは思うのだが、読むうちに、ううん?と立ち止まってしまった。学問の自明性というか、われわれは論を進める際に、自分が立っている土台というかスタート地点に無自覚に立脚していることが多い。
この教科書では日本の社会保障制度を語っているのだが、「近代資本主義」社会となった明治というより昭和の戦後を中心に語っており、「近代国家」であるという前提条件を自明のこととして議論が進められていく。しかしながら、この枠組みで語られる「公的扶助=生活保護制度」は、あくまでシステムありきの制度設計上の議論であり、なにを貧困とするのかなど欧米各国と日本とのそれぞれの社会構成や歴史・地理の違いなどを一旦無視して、欧米の「(近代)社会保障制度」をそのまま日本に持ってきて、その適用の可能性を探っている(という現実を)ことを教えているのに過ぎない。つまり理論的な根拠や制度設計を疑ってもいけないし、あくまでも現行法理論上での現場での適用の仕方を考えろと励ましているのに過ぎないのである。
まあ、日本の学問自体が、その足元を深く考えないで枝葉の応用を考えるというきらいはあるのだが。
ところで、藤原正彦氏も『国家の品格』で言っているが、「論理はスタート地点を決めなければいけないが、スタート地点を決めるのは論理ではなく感性である」というテーゼがある。
http://arukunakama.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_2a1d.html
↑ちょっとけなしているようだが、実は結構私の考えているところと非常に似ている点が多い。ただ議論の進め方が雑だと私は言っているのである。
われわれの世界を考える際に、やはり‘ユートピア’ではなく現実に生きる世界を議論の対象としなければならない。われわれ日本人の場合は、たまたま「近代資本主義社会」であるというだけである。確かに、日本の内部にもいろいろな側面を併せ持っていることは自明であり、その前近代的要素が場合によっては濃厚に残っていることは事実である。しかしながら、なぜか‘学問’的に考える人つまり大学の先生がいうことは、それを暗黙の了解として‘理論’的に議論を進めてしまうので、どうも私はついていけない。
というか、議論の出発点の自覚が必要なのではないかということなのである。
開発民俗学的に考えるとしたら、やはりまずその当該の地域なり国なりがどんな社会的な現実に立っているかの提示が必要であると考える。
公的扶助、セーフティネットの問題は、4,5年前から問題意識をもってみているが、日本の論調は、やはり金銭的な側面で捉えられているものが多いように見受けられる。特に途上国開発を考えるには、まず現状の把握と、その文脈にたった公的扶助、セーフティネットの‘再’構築が必要であると考える。

今後の研究課題


1.先進国の社会保障制度


近代資本主義ベースの公的扶助論はひとまず置いておく。その理由として、日本型、アメリカ型、フランス型、イギリス型、その他の先進国各国のそれぞれのレベルの研究が進んでおり、確かにバリエーションがあるとはいえ、一つのパラダイムで動いていることは自明であること、しかもその制度設計が非常に複雑かつ高度な‘専門’組織の介在を必要としていること、つまり、このような社会制度(体系)を途上国に移植することは困難であるからである。

2.社会主義国の社会保障制度の検証


これはぜひ今の段階でやっておかなければならないと思う。1992年のソ連崩壊後、社会主義自体がダメになったというか、すべからく資本主義に移行すべき論調があるが、生活実感を踏まえた‘社会主義’の問い直しがあってもよいと思う。システムや官僚制度としての社会主義には興味がない。このシステム下で、実際の市井の人たちはどのような生きがいや幸せを実感してきたのか、その面での検証をのぞむ。→たぶん、日本人研究者でもこのような研究をしているはずなので、ちょっと調べてみたい。

3.イスラームの社会保障制度


この分野の日本での研究は遅れている。私が5年程前に調べたところでは、ほとんど邦文の論文はなかった。ただし、歴史や社会学分野、特に中世史の枠組みでは日本は研究の蓄積があるのである。以前から不思議だったのだが、どうしても学者は自分の趣味にかまけるというか現代社会と対峙するような問題意識が希薄な研究者が多いような気がする。(当然、そうではない多くの優れた業績を上げている先生方も存じ上げているし、逆に現代社会に対する鋭い問題意識になしにはよい研究はできないと思う。)
中世の(素晴らしい)イスラム社会 ← × → エキゾチックではあるが(遅れた途上国としての)現在のイスラム社会
なぜか、歴史を繋ぐリンクが抜けているのだ。現在の途上国で働く人たち(開発専門家のわれわれも含めて)は歴史や文化への造詣が浅く、表面的なことしかみていない場合が多いし、歴史や地理的背景を持った社会制度を顧みず、先進国型の制度を、つぎはぎ的に押し付けようとする。これは、まさに先進国の開発専門家の責任が大きいのだが、もう少しなんとかならないものか。
閑話休題、このイスラームの社会保障制度の問題はとても課題として大きすぎるので、日本の若手の活躍を期待したい。(一生の研究テーマとしても大きすぎるのではなかろうか。わたしも個人的には関心があるが、片手間では対応できない。)

4.無文字社会の社会(保障)制度の掘り起こし


やっかいなのは無文字社会の文化の掘り起しである。いろいろなところで触れているが、今の世の中、完全に外部(文明)社会と孤立した民族や部族は、ほとんどいない。当然、濃淡はあるにせよ物質文明との交流は継続的に続いており、未開部族や先住民と呼ばれる人でさえ、日日、社会変容を続けている。その中で、どこまで既存の価値観なり社会規範を、外部者であるわれわれが知ることができるのか。そこにこそ、開発民俗学の存在、価値があると思う。
とにかく、開発の現場では、われかれの立場に鈍感であることが多いこと、ともすれば無自覚にも先進国の、さらにいえば「近代資本主義」の論理に基づく技術や社会制度の押し付けになりがちであること、それは、今の調査の実施体制や物理的な制約からかなり難しいことを指摘しておく。

P.S.


まあ、私がいっていることは、チェンバース氏のいう「参加型開発」そのものであるというむきもあろう。だが、あえていわせていただけば、そんな早速、姑息なPRAやPLAの‘手法’の話をしているのではない。当然、彼らのいうのも‘手法’ではなく‘哲学’なのだがそれは一旦、おいておく。
私の議論の肝は、相手の‘リアリティ’をどう把握するかだけの話ではなく、それをどう計画や実践論につなげていくかというところにおきたいと思っている。同じ途上国といっても独自に文字をもち高度な文明をもっている(歴史の蓄積のある)ところや、無文字社会に等しいところまで、千差万別である。
少なくとも文明をもつ地域の方たちについては、PRAをやる以前に、歴史、文化、地理などをちゃんと勉強してから、相手とお話をしないと、あなたが馬鹿にされるというか恥をかきますよということは強調しても強調しすぎることはない。
しかしながら、私の話も、「いかにわれわれが何も知らないか」ということに尽きる。‘知らない’ということに無自覚すぎることの告発とでもいおうか。
私の書いていることは、全て‘みなさんにいう’というよりは、‘自分への戒め’である。

この項 了


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