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【感想・考察】万博設計15「夏の時間」(作・深津篤史)@ウイングフィールド
万博設計「夏の時間」を観劇。
惹き込まれて、面白くて、考察も含む観劇体験がとても楽しかったので記録。自分用メモです。
※記事公開するの遅すぎだけど、これを書いたのは観劇後1週間以内くらい
観に行ったのは知り合いの役者さんが出演されていたからで、劇団や作者の深津さんのことを全く知らずに観劇。
一緒に行ったお友達が深津さんの作品が好きだと言っていたので楽しみにしていました。
10/26(土)19時公演
ほとんど小劇場に行ったことがなく、ウイングフィールドも初めてだったのでお友達が色々教えてくれた。チケットの受け取り・支払い、待合室、靴を脱ぐシステムなど、慣れないシステムの体験が既に興味深くて面白い。
舞台と客席の近さにびっくりする。
観劇自体、私はこんなに人の動きや関係性を凝視する経験って舞台以外であまりないなと思っているのだけれど、小劇場だと凝視するレベルではなく、もはや一緒に体験しているレベル。
そこに役者がいる。そこに舞台装置がある。
つい、観客である自分と地続きの話だと錯覚してしまうのが考察を進ませたのか。
虚構の世界であるはずの演劇だが、鑑賞したのではなく、体験したのかもしれない。
舞台が始まるーーー。
暗闇、水の音。
中央にはしゃがみ込む女性。
ボレロの音楽。
どんな物語が展開するのか、ドキドキしながら見る。
とにかく近いため、役者の一挙手一投足に着目してしまう。
「あの人がこう動いた」
「何かよく分からない台詞の意味は?」
「うわあ、めっちゃ分かる。色っぽすぎる。私も惹かれてしまう・・・」
「楽しそうー!美味しそうー!」
「何だ、この所々に感じる違和感は・・・?」」
もうドキドキ、ワクワク。本当に体験。自分の感情と思考が忙しい。
そして最後、これまでの違和感の真相。
小山と呼ばれていた男が実は木下だった。
なるほど。・・・ということは?
「役がずれていたのか」というのが最初の解釈。
・小山と呼ばれていた男 →木下
・木下と呼ばれていた男 →大森
・男とだけ書かれていた男 →小山
・君枝はそのまま君枝
でも違和感の正体は分かったけど、なぜ木下が小山として話が展開されていたのかの謎が残る。
ここで私が考えたのが、「木下妄想説」。
つまり、これは木下の混乱した頭の中の世界であり、木下の願望が作り出した妄想。全員、木下の中でのイメージや願望を通して見たその人なのでは?と考えた。
そんな考察を色々していると、めちゃくちゃもう一度見たくなってくる。
たくさん感じたあの違和感はどうなるんだろう?
この解釈で見たら今度はどう見えるんだろう?
考えだしたらワクワクが止まらず、結局次の日に2回目を見ることを決め、その日の夜にチケットを申し込んだ。
10/27(日)11時公演
本当に予定空いててよかった。見に来れて嬉しい!
「木下妄想説」でもう一度観劇体験をする。
君枝さん。
1回目の時からものすごく魅力的で艶があってキュートで、同性の私もドキドキしてしまうと思っていたけど、こう見ると木下の理想が詰まっているように見えてくる。
「カレンダーさん」の話に代表されるどうでもいいけど嫌味が無い話。漬物を急に食べて照れる天然な可愛さ。正直、本当は天然ではなくて計算した小悪魔系なのかなと思うけど、木下にとって天然か計算かなんてどちらでもいいんだろう。可愛ければ。
手酌(本当の手、という意味での)の場面なんて、清楚なのに大胆な女が好きという男性の欲望そのものみたいで、二重の意味で見てはいけないものを見ている気がする。本来は第三者である私には見えないはずの「男性の欲望」と、それを体現している「場面そのもの」という意味で。
とにかく君枝さんの温度感のある色気は、木下のフィルターを通して見るからこそこんなに魅力的なのかもしれないと感じながら、私も一緒に君枝さんの色に当てられる。なんて魅惑的なんだ君枝さん。
1回目に見たときに最初に感じた違和感が、実は君枝と小山が木下の日記の話をしている場面だった。君枝が「主語がないでしょう?」と小山に言うと、小山がかなり食い気味で「わかります」と言う。
私はお2人の演技を見るのは初めてだったので、こんなものなのかな?と思ったけど、2回目見ると見える景色が変わってくる。小山が食い気味に言うのは、実は木下本人だったからか。日記を書いた張本人だからわかるに決まっている。
違和感2つ目。木下の登場シーンで小山が驚かないことについて、これも1回目の観劇で超違和感だったが、2回目を見ると当たり前だよなと思う。すべて小山(実は木下)の妄想だとしたら、いつ登場するかわかるよね。
しかしこの辺りから、2回目の観劇でまさかの謎が深まってくる体験をする・・・。今あなたは大森なのか?木下なのか?
木下(実は大森)が語るプリンの話。小山(実は木下)が「大森はプリンのような男だったな」というと、木下(実は大森)が爆笑する。
プリンのようなのは本当に大森か?プリンのような男は本当は木下かもしれない。プリンはネガティブな意味なので、木下は大森だと思いたいけど、実は言っている木下本人で、木下自身がそれ(プリンが木下であること)に対して笑っている・・・。
そう考えると、今この人は、大森なのか?木下なのか?
なぜこのように考えたかというと、木下から見た「君枝」と「小山」は理想(君枝は「こうあって欲しい」理想、小山は「こうなりたい」理想)で完全に客体であるのに対して、大森とは主体/客体の線引きが曖昧で移ろいやすそうだと感じたから。
※ここでは超簡単に、主体=自分、客体=自分以外とする
お互い次男である木下と大森は、上と下に挟まれた関係性の中で生きてきた。幼少期は年齢や身体の大きさで簡単だった兄弟間の優劣も、就職や社会人としての生き方によってどんどん力関係は揺れ動く。
ずっと仲が良かった大森、木下、小山、君枝も、君枝との結婚や離婚・再婚、小山が東京に行くことで関係性が変わっていく。同じ馬鹿だと思っていた大森が、自分の元妻と結婚する。仲が良かったはずの男3人も、小山の不在によって変わっていく。
「俺は本当に大森を殺したんだろうか」「小山がいてくれたら」
木下(実は大森)が言っているこの言葉は、本当は小山(実は木下)の思い。自分が大森を殺したって信じたくない。悪いのは自分ではなく、東京に行ってしまった小山だ。ずっとずっと、木下は混乱している。
小山(実は木下)は、君枝に理想を描く。
・「あんたの旦那が死んだんだ」君枝に何度も訴える小山(実は木下)。気にしない君枝。君枝には大森のことを気にしてほしくない。自分と楽しい時間を過ごしてほしい。
・大森と幸せだったかを聞く小山(実は木下)。はぐらかす君枝。好きな女の幸せは気になるけど、他の男が幸せにしている様子なんて聞きたくない。それが馬鹿の大森ならなおさら。
「考える馬鹿」の木下は、何かを妄信的に信じることができず、臆病なのかもしれない。
木下(実は大森)に、君枝との理想を描く。
・君枝と木下(実は大森)がやたらと身体接触する。本当は自分がそうしたい、木下の欲望の表れか。
・木下(実は大森)の語りの中で、木下と君枝がなぜ別れたのかについては語るのをやめる。木下が話したくないのか、納得していないのかもしれない。
・「君枝は馬鹿な男が好き」と木下(実は大森)は語るが、それは木下自身の願望であり、自分を納得させるための大森に君枝を取られた理由か。
・蚊を殺してはダメと言う君枝。木下は君枝に窘められたかったのかもしれない。「ああ、そうだな」という木下(実は大森)。木下だってわかってる。人を殺してはダメということくらい。
何度も現場に来たけど、決着がつけれない木下。死にきれないし、自首もできない。
頼りになるのは自分の日記だけ。やたらと木下(実は大森)が「日記に書くなよ」と言っている。日記は過去を書くもの。未来がある人のすること。もう自分には未来がないことを木下自身が覚悟を決めたいのかもしれない。
人間の女の子に恋をした猿の話は、なぜ君枝と小山(実は木下)で食い違うのか。
好きな人間の女の子に振り向いてもらうために月を取りに行く猿。手段が目的化して、「猿は女の子を忘れてしまった」と言う君枝。それは違うと小山(実は木下)。
木下にとって、「猿=自分、女の子=君枝」で、月を取りに行くことが「(君枝にもう一度振り向いてもらうために)大森を殺すこと」だったとしたら?
君枝は木下のこうあって欲しい理想。でも物語の中で、徐々にその構造が崩れていく。君枝が木下の自我に取り込まれていく。
いつの間にか、女の子(君枝)を忘れてしまった猿(木下)。残っている気持ちは、月を取りに行く(大森を殺す)ことだけ・・・。
君枝と別れた後の木下はどんな人生だったのだろう?
いつの間にか、「大森を殺すこと」が木下の人生の救いになっていたのかもしれない。
自分の人生はこんなはずではなかった。
君枝がいたら良かった?小山がいたら良かった?もうそれも分からない。
月を掴んだ男は、呆然と立ち尽くす。
得られるはずだった何かは、どこにもなかった。
1年前の8/3からずっと混乱している。
涼しかったその日は、木下の暗く混沌とした人生の始まり。
「やっとまとまったな」
大森が言うこの言葉。
混乱していた木下の頭の中で、登場人物がひとつになる。
理想の君枝はもういない。
自分はもう小山を演じない。
大森は自分が殺した。
自分は木下。
別に木下の妄想じゃなくても、人間誰しもその人の主観から他人や関係性を見ているし、主体と客体の間の線引きもハッキリしたり、曖昧になったり、人や状況によって違ったりするんだと思う。
そして嬉しくなったり、哀しくなったり、混乱したりする。
絶対なんてなくて、曖昧で、移ろいやすくて、でもその中でそれぞれの思いと行動で留まる関係性の尊さを感じたり、脆さに慄く。
舞台と客席がとても近い小劇場だからこその作品だと思う。
近いといったって完全に場所は分かれているんだけど。
でもいつの間にか自分と木下の境界線が曖昧になって、木下の心情を体験しているような気がした。
私もこの1年くらい、ずっと混乱しているのかもしれない。木下のように。
長々と書いたけど、とにかく最高の観劇体験だった。
脚本、演出、役者さんがぴったり合っていて、また観たいなあと思った。そして小劇場観劇にハマりそうと感じた。
ひとまず、深津さんの別の作品を12月に観劇予定。他にも色々とチケット取ったり、既に観たのもあったり。
まだまだ踏み入れ始めだから全然分からないジャンルだけど、一緒に観に行ってくれるお友達もいるし、どんどん楽しめたらなあと思う。
おわり。