なれなかったほうのわたし
詩人になりたかった、と思うことが時々ある。
正確に言えば、「なれたらよかったのに」かもしれない。
わたしの個人的な感触としては、
「なりたかった」には
過去のある時点において「なりたい!」と強く思いそれに向けて努力したけれども、何らかの事情や障壁があって叶わなかった
という感じがする。
いや、わかんないけど。わたしだけかもしれないけど。
だからわたしには「なりたかった」は言いすぎで、「なれたらよかったのに」がたぶんちょうどいいのだ。
小学生の頃、はじめて明確な意思を持って「なりたい」と思った職業は作家だった。
自分でお話をいくつか書いたけど、どれも途中で「面白くないな」と思ってしまった。
発想も表現もすべてが凡庸で、どこかにある話の真似事にしか感じられなかった。
そのうち、新しいアイディアを考えるよりも、既に書いた部分を推敲することの方が楽しくなった。
いっこうに話が進まなくなって、何度も書き直した前半部分だけがたまっていった。
そして、「わたしのような面白いことを考えつかない人間が、作家になれるわけないか」と思い、いつしか書くのをやめてしまった。
いまでも時々、たとえば人間の心の揺らぎや、生きることの不可思議さを発見すると、作家になれたらよかったのになあと思うことがある。
空を見上げながら歩いたら、詩人になれたらよかったのに、と思うし
公園で面白い人を見つけると、この人を戯曲に書けたらどんな舞台になるだろうと思う。
いま笑ったこの人の笑顔を絵に描くことができたらなあ。
このエピソードを漫画にできたら、たくさんの人に伝えられたかもしれないのにな。
リンゴをうさぎの形に切ってくれた喫茶店のおばあさんの一日を、ショートムービーにしたい。
この景色を写真に撮ってだれかに届けられたら。
できなくても才能がなくても、とにかくやってみたらいいという考えは、もちろん正しい。
それはわかっているけれども。
わたしが表現しようとした瞬間に、その何かが最悪につまらないものになってしまうんじゃないか、と思う。
色彩は消え、呼吸は止まり、揺れ動くのをやめて、骸よりももっとずっと、何でもないものになってしまうんじゃないか、と思う。
もう二度と同じ音色が鳴ることはないんじゃないかと思う。
こんなふうに、できないことで「たられば」を言うのは、なんだかとても未熟な感じだ。
自分を受け入れられてないような感じがする。
現実を見て、無理なことは諦めて、目の前のものに向き合って、そうして生きていくのが大人ってもんでしょ、と誰かの声がする。
あったらなあと思うものは何一つなく、なりたかったなあと思うものにはどれにもなれなかった、その結果の残りが、いまのわたしだ。
でも、よくよく考えてみると、
「なりたかったなあ」「やりたかったなあ」と思うものは、わたしがわたしであることと、ものすごく密接なところにあるような気がしてくる。
当たり前だ。
「いいなあ」と思う感性は、紛れもなくわたしのものなのだ。
なりたかったものと、なれなかったわたしは、どこかの分岐点でさよならしたわけじゃなく、ほんとうはずっと一緒に歩いてきたのかな。
だったら、なりたかったほうも呼び起こして、もう少し優しくしてあげてもいいかな。