母の寂しさ、わたしの寂しさ
母が東京に出掛けてくるというので2人で食事をしました。
わたしはつい最近までずっと、母が作った洋服ばかり着ていました。
それは体型を隠すためのだぼっとした服ばかりでした。
母が悪いのではなくて、わたし自身がそういう服しか着られないと思っていたからなのだけど。
でもいま、わたしは体型を隠すんじゃなく、自分の体型に似合う服を着たいと思って模索しているところで。
だからこの前買った服で全身固めて、わたしはこれからこういう服を着て、かっこよくなりたいんだ、ということをアピールする日と決めていました。
自分が着たい服を、もしかしたら否定されるかもしれない、という不安も少しありました。
彼女はものすごく褒めはしなかったけど、少なくとも否定はしなかった。
これ、いいじゃん、くらいの感じではあったと思う。
もうすぐ26歳だってのに、そんなことをいちいち心配するくらい、わたしは母に否定されるのが怖いんだなあ、と思いました。
わたしが結婚してからは、わりとフラットに話せるようになってきて、
それは結婚するときに全く反対されなかったことがわたしの中では大きかったのですが、
こんなふうに2人で話すことを楽しめるようになったのはごく最近のことで。
わたしの記憶の中の母は、いつも何かに怒ったり誰かを否定したりしている人で。
でも大人になったわたしと話している母は、思ったことを言葉にするのに3クッションくらい必要な人で。
わたしが大人になったこと、彼女が歳をとったこと、いろんな要因があって変化しているんだろうなあと、帰り道にぼんやりと考えていたら。
「あの人は本当に心の中にある大切なものを、すぐに言葉にすることができないがために、人を攻撃したり否定したりする言葉をインスタントに使ってしまう人生を送ってきたんじゃないだろうか」
ということに行きついて。
そう思ったらなんだか彼女の寂しさが、ざざーっと心の中にしみこんできた。
わたしは母を許せなかった時期が何年かあって、
それは学校でいじめられていたとき助けてくれなかったとか、
バレエをやめたかったのにやめてもいいと言わなかったこととか、
わたしに習い事をたくさんさせたり弟に芸能をやらせたりすることで、
彼女の果たせなかった何かをわたしたちに仮託しているのではないかと子供ながら考えたこととか、
そういういろんなことがあったのですが。
でも、彼女がわたしを産んだとき、そうまさにたったの、26歳で。
わたしたちを育てているときも進行形で、彼女は自己肯定の旅の途中にいたはずで。
たしかに彼女はわたしをずっと愛していて、わたしも幼い頃からそれを認識していて。
本当に全力で、一生懸命、子育てしていたと思う。
ただもう少し、「できないわたし」「しっかりしてないわたし」でも許してくれていたら、わたしもだいぶ生きやすかったのに、と思うのも事実だけど。
でも、ありのままの自分を認められない人が、子をありのまま認めるなんて、できるだろうか。
彼女の言動がわたしを傷つけたことに関して、ほんとうに彼女に責任はあるんだろうか。
そう思うと、時間を遡って昔の母に会いにいって、寄り添ってあげたいような気持ちになった。
母の寂しさを見つめたら、わたしの寂しさも少し成仏したような気がします。
親の寂しさを受け止めることで、自分の寂しさとも向き合うことになるのかもしれない。
親の寂しさを理解することで、与えられた寂しさから自由になることが、大人になるってことなんじゃないかって思いました。
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