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わざわざ下手な絵で寮の暮らしを記録する理由

ずっと絵を描くのが下手

私は、長年絵を描いている。

小さい頃から紙とペンがあれば喜んでいたし、学生の頃から現在に至るまで座学講義はグラフィック・レコーディングで板書している。雑誌の小さいカットを必死に描くなど商業イラストレーターの仕事を頑張っていた時期もあったし、人生の中で文章を書くよりも絵を描いている時間の方がなんだかんだ圧倒的に長い。

藝術舎creek 5期 授業ノート(講師:五十嵐太郎)
「独り言の回復」 授業ノート(講師:布施琳太郎)

だが、たった一つ今も変わらないことがある。いくらクロッキーしてもデッサンを習って練習しても決定的に絵が下手なのである。

絵画でいえば、デッサンを重視しないと謳うレクチャーでも結局デッサンで怒られてしまう。イラストレーションでは敏腕のデザイナーもしくはディレクターの温情がなければ無能だ。熱意や取り組む姿勢を評価いただいてクライアントワークをいただくことはあれど、技術面のみでいえば本当に進歩がない。SNSでも何度か呟いた記憶が新しいけれど、「食っていくための道筋」でいえばディレクターの方が向いているだろう(実際本業は編集者とプロジェクトマネージャーなのでクリエイティブ方面の適正もなんとなくそっちだろうなという感じはある)。

血の通う風景を「差異」で表現すること

私は2023年の11月頃から日就寮という学生自治寮(&他の自治寮の歴史)のリサーチと記録活動を継続している。きっかけは通わせてもらっていた短期集中型で現代美術に携わるひとを育てる塾「藝術舎creek」の卒業制作の時期に寮主催のクラブイベントで寮に足を運んだのがきっかけである。

2023年11月18日(土)寮の共用部を使ったクラブイベント「CLUB NISSHU」

それ以降、卒制に向けて寮生たちから話を聞きに行くのが楽しくて、周りにその流れを話すと「何年か前にアート事業の一環で行ったけど、なんかすごかったね」「近所に住んでいるが実態はよく知らない」と実にふんわりした反応ばかりだった。寮内は家具やスペースの配置ひとつとってもめまぐるしく変化し続けているのに、外から見た寮の時間(イメージ・表象)の流れは恐ろしく遅い、もしくはいつまでも止まっている。

私が美術・WEBメディアそれぞれの文脈でリサーチを継続するようになった以降も寮内の写真は「おばけ屋敷みたい」「本当に人が住んでるの?」というコメントがあったし、「政治の話題が好きな子が行く寮だよね」となんとなくのイメージで話す東北大の寮外生もいた。

寮エントランスのエスキース。なお、現在もこの辺のレイアウトは変化し続けている

私は寮生たちの意思決定で暮らしを営み、自らの手で学生のためのセーフティネットをつくっていく「自治」という文化が本当に面白いと思ったし、寮生の手によって寮内が変化していくスピード感と外部が寮に抱く表象の変わらなさ、この二項のギャップに強く惹かれ、現在も少しずつリサーチと記録を続けている。それと並行して自治文化が色濃く残る全国各地の学生寮が持つ歴史や現状なども調べていくうち、相対的にこの寮の位置付けもうっすら分かってきた。こまごまとした情報から日就寮へ補助線が引かれていくうち、外部の人間が見たもの全てを映像や写真で外に出していくのはとても緊張感のあることだと思った(そもそも暮らしというテーマを扱うこと自体がセンシティブである)。外向けに発表するのは手癖の荒い下手な絵、もしくはそういう絵をまじえたルポルタージュを中心にした方が実際の風景と差異が生まれてちょうどいいのではないだろうか(Web等にドキュメンタリーや内観写真を掲載する場合もあるが、都度許可をいただいている)。

本来、「血の通った暮らしの風景を記録していく」のであれば、一貫して写真やドキュメンタリー映像を撮って発表するのが手段としては一番いいのだろう。先述した卒制の時も講師陣から「写真がいいのでは」とずっと言われていたが、今ならそれに抵抗した理由も明確に言語化できる。

絵を描くのが下手でよかった。

《JET流しそうめん、終幕》2024

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