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日就寮「壁メディア」見聞録の制作を終えて

私も出展している藝術舎/creek 5期生による成果展「つくるところ」も会期残り1日となった。

実は、制作後死んだように横たわっていた際に物書き仲間の佐々木氏がオンラインで制作に関するインタビューをしてくれた。

その記録を以て本作品の解説としたい。

《日就寮の暮らし 2023-2024》 2024,ミクストメディア

以下、聞き手 佐々木かい・話し手 赤瀬川沙耶

―今作で成し遂げたかったことは、100点満点中、何点くらい達成できたか?

手前味噌で恐縮だが、85点。

日頃、編集・ライティングを生業にしているが、それらの手法は日就寮の生活の輪郭や手触りを表現するには向かないと思った。Web記事で表現すると、多分とてもクサくて、エモくしようとしていることが見え見えの、癇に障るものができてしまうし、本質を歪めると思った。
現代美術の文脈で形にできたことについて、「まあ、やったぞ」と思っている。

自分個人の話で言えば、今までも美術文脈の表現を試みてきたが、説明臭くなってしまう傾向があった。美術である以上、余白を残したいという気持ちはあるのだが、「編集」する癖が出てしまう。石巻市のアートドラッグセンターで小さな展示をやった時は編集しすぎたと思う。

その意味で、今回の裏テーマは「編集をやめる」ことだった。寮の壁をひとつの「メディア」と捉え、時系列でまとめるわけでもなく、雑然とした感じを心がけた。一方で、見聞録として見てほしいという葛藤がある以上、編集はどうしても付きまとってくるものではあった。

―リサーチの成果を緻密に編集し、体系的にまとめている。

今回はあくまでもリサーチャーとしての立場を重視した。感銘を受けた事柄を見聞録として載せた。成果物としては「編集をやめる」ことを試みたが、インプットを一度編集し、寮生や講師からフィードバックをもらうことは必須だと考えた。

特に、寮生との考え方のすり合わせは自分の中で重要だった。自分は外からの観察者である以上、生活者である寮生と視点や考え方が異なるのは当然。ただ、公共の場に展示する以上は寮生みんなの認識とあまりにも乖離した表現をするわけにもいかなかった。自分が「面白い」と受け止めた落書きひとつですら、寮生の受け止めかたは異なるかもしれない。視点のズレは、最小限にしておきたかった。

―卒業制作にこのような手法を選んだのはなぜか?

creekに入った当初は、キャラクター絵画論に取り組むつもりだった。卒業制作も、批評か研究ノートを提出しようと考えていた。

自分が最近キャラクター絵画に思っていることとして、キャラクターはその人物の個性・人となりによる「記号ありき」の限界を超えられず、キャラクターがいないほうがかえってキャラクターをキャラクターたらしめるのではないか、というものがある。つまり、キャラクターそのものを描くのではなく、キャラクターを取り巻いている物事を描くことで、表現したいキャラクターの人となりや生活との向き合い方が浮かび上がってくるのではないかと仮定している。

その意味で、「クラブ日就」ではじめて目にした寮の壁は、キャラクターを浮かび上がらせる「メディア」そのものだと直感した。元々、仙台での閉じられた(実際彼らは発信を頑張っているのでセミクローズドくらいだが)物事に関心を寄せていたこともあって、自分の求めているテーマとぴったり合致した。

―寮の壁がキャラクターを浮かび上がらせるという視点は面白いが、落書きの多くは、少し前の年代の寮生によるものが中心だと聞いている。現在の寮生の人となりとダイレクトに結びつかないのではないか?

そこを補うためにも、リサーチに力を入れた。確かに、寮の文化は時代とともに移り変わっており、最近は落書きよりも張り紙のほうがアクティブであるほか、退寮時の私物持ち帰りが徹底されていて先輩の私物(いわゆる「置き土産」)も残されなくなってきている。

落書きやかつての寮生たちの私物等にフォーカスすることで、先輩たちの顔は浮かんできても、2023年度現在の寮生の暮らしや人となりの輪郭は浮かび上がりにくいという課題がある。現役寮生への聞き取りをまとめた内容を中心たすることで、今の寮生たちのキャラクターとともに、寮が「更新され続けている」ことを強調した。

その意味で日就寮は、「外の時間」と「中の時間」にズレが生じているのではないかと考えている。外の時間、すなわち部外者の視点では、寮は旧態依然である。しかし、中の時間、すなわち寮生の視点では、寮の文化は常に移り変わり続けている。

制作前には、寮の歴史(過去)にフォーカスし、寮の壁や私物を通じて架空の先輩のキャラクターを浮かび上がらせるという構想もあった。また、男子寮ではあるものの(であるがゆえ)、落書きやシール等に存在している女の子キャラクターに注目する「日就寮の女の子」というアイデアもあったが、いずれのアプローチも選ばなかった。

それは自分があくまでもひとまず、 今の話をしたかったから。現役寮生は過去の先輩に比べて寮内に痕跡を残さないからこそ、彼らの行為にフォーカスし、「中の時間」を表現したいと考えた。

―Webメディアの編集長として、日頃から様々なメディアツールを駆使している。今回、極めてアナログな手法を選んだのはなぜか?

そもそも、寮の壁を「メディア」として捉えた感覚を大切にする上で、「寮の壁になぞらえる」手法は外せなかった。現地では、古い落書きをいくつかトレーシングペーパーで転写させてもらったが、その時感じた手触りこそが大事だと思ったから。スケッチも手描きで行った。

確かに、映像という選択肢もあったが、自分はドキュメンタリーを撮りたいわけではなかったし、写真を並べることもできただろうが、それでは「写真展」になってしまう。映像も写真も、生々しさがあり、表現として「強すぎる」と思っている。強いメディアで寮のリアルを展示することは、場合によっては自治寮の実態を表面的に切り取られ、記号的に消費されてしまうリスクが大きすぎる。

その点、一部をアナログで描くことによって、表現に「余白」が生まれる。第三者である自分の表現によって、生活者である寮生の身に悪影響が及ぶことがあってはならない。その意味でも最終的に「編集」は必要になる。アナログによるふわっとした表現と、そのプロセスにおける編集は、制作に快く応じてくれた寮生を消費させないための、自分なりの誠意。

―日頃のまちづくり系の仕事に今回の経験がつながりそうな感覚はあるか?

分からない。少なくとも、「開いていく」ことを重視する傾向があるまちづくりの場に、寮というある程度閉じたところで生きている彼らを無理やり引っ張ってこようとは思えない。

以前、東北大で助手を務める今泉氏が「コミュニティや建築は、まちに開いていくことも、閉じていくこともある」とおっしゃっていた。聞いた当初はピンと来なかったが、今はその視点の大切さが分かる気がする。日就寮は決して内向き一辺倒というわけではなく、いわば「セミオープン/セミクローズド」なのだが、そうした概念をまちづくりにおいても忘れないようにしたいという気持ちはある。

―今作の限界は何か?

制作しながらアップデートしていく作り方が理想だったが、展示まで短期決戦だったので、できなかった。ただ、そのぶん会期中に来場者から聞いた話を鉛筆で加筆できたのは良かった。

―学生時代から表現活動に取り組んできた中で、過去の自分との変化を感じることはあるか?

一番は、「内発ではなく、他者を参照する」ところだと思っている。若い頃は、自分の鬱屈とした気持ちを創作のエネルギーに変えてきたが、最近は外部の状況を参照した上で、自分の気持ちの動きを捉えて創作できている。自分の気持ちだけで作らないという点は本当に変わった。creekの講義でも、「現代美術とは作られた時代を指すのではなく、社会をメタレベルで参照して作られるもの」と教わった。その意味でも今作には手応えを感じている。

謝辞

日就寮 寮生の皆様(CC:東北大学 立て看同好会の皆様)

私は以前、東北大学立て看同好会のインタビュー記事に「僕達はきっと、もっと、自由だ!」というタイトルをつけようとしていましたが、できませんでした。弱小Webメディアであるがゆえに、分かりやすくしなければ読んでもらえないと思ったからです。

今回は、その悔しさを経験していたからこそ現代美術の文脈で皆さんの暮らしの表現に挑戦しました。完全にエゴではありますが、皆さんの暮らしの輪郭、自由を目指す自治と共同の暮らしをモノというかたちで残してみたかったのです。

私生活のこと、寮のこと、貴重な時間を割いて色々お話してくださりありがとうございました。改めてこの場で御礼申し上げます。

creek講師 五十嵐太郎先生、清水健人先生
運営事務局、同期受講生の皆様

ご指導いただき誠にありがとうございました。建築、そして現代美術の観点からフィードバックをいただいたことで制作における手応えを感じることが出来ました。今後は批評やテキストベースのリサーチが中心になってきそうですが、今回の制作はそのプラクティスとなったと思います。

また、事務局の皆様も私のワガママな要望に応えていただきありがとうございました。搬出までが展覧会ではありますが、改めて御礼申し上げます。

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