差別
米山さんの投稿をちらちら目にしていたら、 最初は気持ちの落ち込みや
視界がもやけた雲におおわれるよう、 メンタルにきていたけれど
今日なんかは、 言葉そのままの意味で ほんとうに吐き気がしてきて
さらにいまは心臓が痛い
差別に大きいも小さいもない
差別は差別だし そこに差異があるとしたら それは差別への自覚度で
差別に無自覚であるほど、 そのことで傷つくひとがいることに気づかない
気づいてないぶん、 わかってないぶん
あらゆる場での、 自分の視点や言動に、 注意してもしすぎることはない
そのとき、 差別の場に出くわしたなら 中立を選ぶと加担になる
自分の目はまずそのどのときも 差別されている側におく
自分への注意は自分のちからが働くけれど 自分が差別を受けているのを
わかったとき これはもう 打つ手なしと思うしかないで わたしは
それを向けられたとき、 幼きころからいまのときまで ただ無で来た
無で来たと思っていたけど じっさいは、 その瞬間には いろんな思いが
ないまぜになり そうしてげじげじと波打つ胸の土壌を 無になることで
フラットに戻すことをしていたのだと もろもろの記憶を思い返したとき
やっぱりそうする以外になかったと 幼き頃のわたしと、 いまのわたし
そこは何も変わっていない。 それは受け入れると違う、 その諦観の
自分への強要は わたしがわたしであることを 守ったようにいまも思う
差別を飲み込み、 自分の内で消化するしかない 声なき慟哭に気づいたとき
そのひとのそばに立ち、 差別と戦おうとするひとが いるかいないか
それはそうして差別するひとに、 差別への自覚を促せるかでも、 謝らさせ
られるかでもない それは勝ち負けじゃない そういうことじゃない
思い返せば わたしのそばに立ってくれるひとはいなかった
もしひとりでもいてたら いまの記憶は違うものになっているかもしれない
差別をしたこともなければ 差別を受けたことがないひともきっといない
そういう意味では 米山さんが言うように 差別はなくならないと思わせる
ほど ひとの目も、 ひとがつくる社会も ある部分では 差別がなければ
この世界は成り立たたなくなるくらい (搾取と支配、 フラストレーション
のコントロール、 戦争なくしてはの軍需産業) その蔓延りは 鬼深刻で
差別はなくなることはない
それは そういうものだからだと そう思ってしまうことによってであり
実際は 現実は わたしはまったくそうではないと思う
ほとんどのひとは、 自覚的に犯罪に手を染めないのは 自分の意識がそれを
ストップしているからで 選挙活動をするひとが、 公職選挙法を気を付ける
みたい 警官が交通違反を犯さないよう注意して運転するのも 原発の作業
員の方が原発を、 止めたり動かしたりするのも 自分と自分がしていること
の自覚があるから 少しの不注意が立場や職を失う事態にもなれば 原発に
いたっては 人類の危機にもなりうるという自覚があるからで
それと同じに 差別は人の人生や命を奪う 原発と同じに重大なものとして
深く意識的に、 外に内 対峙すべきものであると 個々、 全体に それが
あたりまえのものとなったなら そうしてなんとかぎりぎりながらも、
日本は直接的な戦争を起こすことも、 参戦することもなく それをとうぜん
のようにみな 平和を享受しているみたい
差別だって 個々人や、 上にいるひと、 みんなの不断の努力によって
全ての差別をなくすことは不可能であり、 人間小さな差別はしょうがないと
いう 米山さんの保身と逃げと無責任にあふれた言い訳は
そっちこそ世間知らずのものであるという 差別はなくらないのではなく
あるのがありえないという認識にだって いつか反転できるかもしれない
それをできるのは それをするのは ひとりひとり
ひとりひとりの差別への自覚 それに気づくための 注意深さを
ひとりひとり 誰より自分に見続ける
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