痛み
隣に座ったひとからの香料に、 頭と胸が痛くなる。
その痛みが何を示してくれているのかをみる。
そのひとはその香りを纏いたくて纏っている。
その匂いが自分以外のひとにどういう影響をもたらすかを思うことなく
自分にとって、 よかれと思って。
その、 よいと思ってしていることが、 自分以外のものへ
無自覚に、 ダメージを与えているということ
それを、 今度は頭や胸だけでなく、 全身で、 そのことを感じる。
匂いをつらく思ったひと、 わたしもまったく日々同じことをしている。
ひとに対してだけじゃない、 川に海に土に植物に人間以外の生命に、 菌にものやことも。 例えば出すごみ、 ちょっと鼻をかんで捨ててしまう紙、 買って持って帰るだけに使ったビニール、 調理時や洗浄のための排水、 ぽけっとから何枚落としたかわからないマスク、 手軽さを優先し届く、 アマゾンの段ボール。 そういうのが、 無自覚に、 刻々と何かに、 きびしい影響を与えている。 わたしの存在、 愛しく幸せに感じている、 わたしの暮らしが、 大気に土中、 そして水を汚染し、 たくさんの、 自分では認識してない犠牲がそこには、 広がっている。 お店を出て大川をわたるとき、 そこに住まう魚を思った。 自分のありかた、 そこでの意識、 もっと、 律しないとと まだ残る頭と胸の痛みとともに、 しんからそれを強く思った。
洗剤は マグちゃん と 海へ に変えても
衣服から出るプラスチック、 化繊はなるべくにさけても、 着る服全てはむずかしく、 まだそこへの微妙なる思い、 なるべく見ないようしている
そういう、 ごろっとしたつっかかり、 申し訳なさを、 どこかでは感じているのに
ひとまず見ないようにしていること これからは、 ちょっとずつでも、 それをまっすぐに見つめ自覚し、 ちょっとずつでも、 影響が大きくないほう、 変えてゆきたい。 自分がすること、 取り入れるすべては、 自分以外のすべてにもわたれば、 直接には、 自分のからだとこころ、 自分へと返る。
日々、 からだが教えてくれることがある
それは、 木々や生き物、 そういった、 声なき声のときあれば、 自分からの、 自分へのつっこみのときもある。 からだに意識の耳を傾けるだけで、 生きることが
終わることない問答のつづきなのをわかる。 そうしたら、 なんで生きているのだろうなんて、 思ってはいられなくなる。 自分にあきらめや、 こころの離れが起こっても、 ぜったいに、 自分をあきらめないで、 そうしてどのときも、 その自分に問い続け、 そこでの反応である返答、 表明を求め、 その自分がゆく、 続き広がる道を見続けてくれている存在がいる。 それは誰でもない、 自分である。
自分から離れることはできない
あきらめようとしても
生きている限り、 また体を離れたそのあとも
自分を生きること、 自分を生きようとする思いは
消えてしまうこと、 なくなることは、 一瞬だってない。
この地上から、 風が完全に止まることはないように。
自分という存在は、 川をゆく水と同じ、 常に動き、 流れ、 循環をし続けている。
それは、 他者も。 すべての存在も。
その循環による混ざり合いが、 混濁に向かうか、 調和化するか
日々刻々、 問われ、 試されている。
それが、 調和からなるとき 球体の奏でる音楽 を
みんなが、 みんなで、 全身で、 聴くことができる。