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現実

NEW PURE + で開催されている(6月16日迄)
谷口菜津子さん 『イマジナリーフレンドは永遠に』 展 にゆきました

同じ場所、 NEW PURE + で開催された、 北林みなみさんの個展
見るというより、 作品を体験したとき そこで全身で感じたものと
谷口菜津子さんの絵と立体作品は 星と星の光が、 互いに静かに
響きあうみたい ああとなるつながりを 胸で思った

とうぜんに、 現実と思って見ている目の前の世界より
谷口さん、 北林さんからうみだされる世界の方が
どんなにか ほんとうだろうと そう思った


ひとは世界を 自分の内にあるものを通して体験する
外に現実があるのでなく 自分の中にあるものが 目にするものを形づくる

それが にぎるおにぎりであったり そよぐ木の葉の音を聞いたとき 猫を
なで 川を渡るとき見上げる空の広さであったり それと同じに 芸術作品
もまた 目にし、 その体験をうみだす その出所にあるものは それはまだ
形になっていないものならば 先にあるのは 自分の内にあるものならば

そこから現れ出るのものの そのどこまでが 「現実」 とされるのか

それは創作物であり 現実とは違うものとして見るのか
宮沢賢治は、 幻想第四次元で見たものを 体験を 言葉として残した
彼が見たものは 単に幻想、イマジネーションによるもので 実際の現実と
彼が見ていた現実は 異なるものなのか 別なるものなのか

目の前にあるすべて その出所は 目には見えないものであるなら
現実か創作か そこに違いなんてなければ
谷口さん、 北林さんの作品は 賢治の言葉に見る世界も
それでいけば こっちの方がほんとうと こっちの方のほんとうを
ひとは ほんとうとして生きるなら

賢治の描く世界
ひとに猫に生き物 そのやわらかなかたちのなかには 躍動する生命が
はちはちに詰まっているのを きらきらと感じる  谷口さんの作品
北林さんの描く 水に山に植物 そこにもまた 生命の巨大さとおしみなさ
その瞬間にしかない生命の合唱を、 全身で聞くことができる その体験は
現実とされるものを見て感じるもの以上のほんとうを
わたしの体 わたしのほんとうはわかる

その芸術のひらめきを いかにいま いかに目の前の世界 自分も繋ぐこと
ができるかを  個々の内にあるものが 形ありきでない 内からうまれる
ほんとうなとき  それをこのいまに それぞれに表現し 生きるとき
幻想と現実の垣根は消えて 賢治が見ていた、 幻想第四次の世界を
この物理次元で みんなあたりまえに感じ生きるよう なるかもしれない

父との離別があってから 娯楽や旅、 芸術に文化 そうした人生を豊かに
するとされるもののほとんど 興味関心、 必要性がゼロくらいにかき消えて
その状態がしばらくでいたけれど 京都では加藤さんの光兎舎 いまの場所
では この出会いの機会をつくってくれた  NEW PURE +さん FOLK
子どもの本屋ぽてと お茶のついでと、 積極性を持たずに触れた芸術作品に
たびたび衝撃を受けながら  芸術のちからのものすごさを思い出し
そのちからに ほんとう大きないろいろをもらい いまはプラナーさん
デザインも 離別とはべつに 大阪に暮らすことで維新の侵食でもろもろが
破壊されてゆくのを見るほどに 自分の感性はすり減るというよりも
無感覚化しないとやっていけないようになり そういうこともあいまって
忘れていた 消えていたその感応が また自分に戻ったことの その感謝

その場があっての機会 作家さんに、 ギャラリスト つながりあうひと
いまを生きるにおいて その大きさ 言葉にならない


最近、 ともだちが note を書いているのを知る
岩清水を口にするみたい からだにこころ すっと染み入り
しょぼくれていた視界にぽっと やわらかな明かりが灯る
彼女の絵に言葉  ほんとうを 大切を 確かめられる


自分の内にあるものを 日々に自由に表現することを
自分に他者に 許し合い 受け取り合うとき
誰かの作品に触れて起こる 世界の開きと同じことが
日々の 世界のあちこちに

それはいま自分ができうる最大の 世界平和への一歩に思う


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