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意思の石

アカデミー賞にノミネートされた 『Black Box Diaries
映像の許諾を問題視し、 彼女のやりかたはルールやモラルに反するという
それは人格の否定にも及ぶような 伊藤詩織さんへの攻撃的な批判や批評を
目にしてから こころに気泡のような空洞がぼこぼことできるのを感じる

私怨にしか思えない元弁護士の訴えや 上から目線のジャーナリストの
発言に、 強い嫌悪を自覚する そうした人間に対して思うことを言葉に
したら きっと獰猛さ溢れるものになってしまうと 胸はざわめき続けても
嫌悪の理由を言葉にしないよう 自分の内に留めるよう努めてきた

わたしは自分のツイッターのリストにある投稿しか見ていないから
起きていることの全体も詳細も、 なんとなくしかわかっていない
この件から感じることは だから感覚的なものでしかなく なんらかの事実
に基づいての見方や認識ではないけれど 攻撃性をおびたこの強い嫌悪の
生じとは別に なるほどとなったのは SNS上で彼女を批判しているひとが
何故かいぶかしさを感じてた、 リベラルな立ち位置から発信をするひとばか
りであること 兵庫県知事選でもあった そのひとが露わになるということ
が 兵庫県知事選挙以上の醜悪さをもって 強烈に現れ出ているように思う

斎藤氏に投票したひとすべてを指していないように
伊藤さんを非難しているからみんなおかしいという意味では書いてない
異様さを感じるのは 斎藤氏を支持したり伊藤氏を非難しているというとこ
ろじゃなく 表出する暴力性でもなく そうした表現にそのひとを向かわせ
る動機というか理由のところにあるものに わたしはアーメンの思いになる

ここまで書いた文も 攻撃性を宿し、 それを隠さず発露しているとして
だからの 思いを外に出すこと 自分の内に留めようとしたけれど
わたしが目にするSNSの投稿は ひどく狭い範囲ではあっても 彼女に向け
られる非難や作品の公開をはばもうとするものに対して なに言ってんねん
気持ち悪いねんという カウンターとなる発信が まずメディアにはなく
個々人もみんな様子をうかがっているように思えて

そのなか 高橋健太郎さんの冷静な投稿は 油断したら押しつぶされそうな
痛みが胸に起こるのを その都度救心を飲むように 大分に助けられていて
軸の通った観点からの率直な態度や言葉は それへの同意や反発の反応の
起こりに関係なく 思考感情無意識がまざりあいうねうねとしたものを
まっすぐ真の必要へ正常化する力があることを 彼の投稿に学び 感謝する

思うのは、 伊藤さんと同じ体験をされたひと 彼女と連帯の思いをもつ
ひとにとって 元弁護士の 「山口のしたレイプと同じ」 発言は それこそ
セカンドレイプと同じ衝撃、 声にならない痛みをあたえるものになったの
ではと 自分自身もその言葉のあまりにもさに 恐怖を思った


意味がわからないことが 兵庫県知事選挙以降、 それは日本に限らず
トランプ就任後のアメリカも含めてメディアやSNSを通じてそれを間髪なく
目にするというのが日々延々と続くというこの異常にも思ういまというのは

そうして他者へ、 世界へ向けて 裸となった姿で何らかを主張するそのひと
自身は それによって自分というものを感じられる そこに少しも問題を思
わなかったとしても その裸での訴えを向けられるひとや見てしまったひと
否応なしにそれを見させられるひとにとっては 街なかで全裸で踊るひとを
見てしまうような 通常は受けなくていい衝撃と、 困惑や、 痛みの生じ
それはその瞬間にとどまらず、 あとの自分自身の時間や日常や世界認識にも
影響を与えるものになるくらい いまというのは 普段のように警戒なしに
目に飛び込むものをただ目にするというのをしたときに 気づいたら落とし
穴の底にいて 明かりの欠いた世界に自分が陥ってしまうというのが
もうこれからは いつでも いくらでものところにあるのだと思う


伊藤さんは自身の作品を 「日本へのラブレター」 と語る

映画が日本で公開される前にそれを観た一部のひとや作品を観ていないひと
の彼女への返信は 強い非難や否定として 外へと公開されているとしても
映画を観たひとりひとりが 自分自身がそれを観てどう感じ どう思うのか
誰がこう言っているのではなく 自分はこう感じる こう思う そのところ
各自から、 うまれる機会を  言葉をこえた その気持ち、 思いの生じが
集合意識に振動をもたらすことを  個々に 社会意識に 一石が
何石も投じられることを そのためにもの 映画の日本公開を 強く願う


伊藤詩織監督 『Black Box Diaries』日本公開を求める署名



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