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誰かの神様になりたかった。
お疲れ様です。
aruです。
自分語り回です。
僕はまだ20そこらしか年数生きていないのですが、こんな若造の独白でよければ、ぜひ目を通していただければと思います。
自己実現の欲求
このタイトルの内容を書くことを考えた時に、まずは聴いてもらいたい曲があります。
カンザキイオリさんの「君の神様になりたい。」です。
苦しいから歌った。
悲しいから歌った。
生きたいから歌った。ただのエゴの塊だった。
こんな歌で誰かが、救えるはずないんだ。
だけど僕は、君の神様になりたかった。
この年まで生きて、学生の頃は夢や手に届く楽しみのために歩んだ人生が、年々現実や社会とのすり合わせに囚われ、妥協して、それでも自分について考え、生きている。
そういう生き方をしている人間が大半だと知ったのは、実はつい最近でした。
自分の周りの人間も、当然そんな風に生きて、実はそれは人間として至極真っ当な生き方で、社会はむしろそれを是正する仕組みになっていて。
絶望こそ抱かなかったものの、自分の生き方はそれに合ったものなのか、反芻していく中でショックを受けたことは事実です。
結論を述べると、やはり僕は自分のために生きているのか、懐疑的になってしまいました。
別に趣味や興味が全くないわけではない。むしろ多い方だ。
でも将来の自分に期待していることは何だ?
それまでごく当たり前のようにしてきたことは、大きな集団にとっては果たして当たり前だったのか。
僕はおそらく、周りのどの人間よりも一番自分にやさしくなかったのだと思います。
自己実現の言葉の意味は次のようです。
人間の欲求のうち最も高度であり,同時に最も人間的な欲求として,自己の内面的欲求を社会生活において実現すること。
現代の承認欲求やアイデンティティがテーマになりやすい風潮の根源は間違いなくこの欲求からでしょう。
それは最も人間らしさを映し出すものであり、美醜問わず存在するものでもあると思います。
では、この虚無感は、自己実現を達成していないから生まれるものだったのか。
答えはおそらくNOでしょう。
偶像崇拝
この独白の帰着は、誰かの神様になれたかどうか。
それは主体的な視点では預かり知らないものであると考えています。
実際の神様は日本の場合、たいてい存命の、特定のだれかを信仰することはなく、亡くなってから敬意をもって奉ったり、とある偶像や概念に対して畏敬の念で信奉したりするからです。
また、神様と呼べる正体は、存在しない何かであることもあります。
だから自分が誰かにとっての神様だったかどうかは、自分では図ることはできないと思っています。
ただ、人のため、誰かのため、相対する友人のために生きたことは、僕にとってはそれが自己実現だったのだと思います。
誰かの神様の振りをすることでそれが自分の居場所なのだと思っていたと思います。
対人関係におけるそれは、偶像なんかではなく実在する一人の人間なのだから、超常的な何かは起こせなくとも、親身になることくらいはできたのでしょう。
自分ではなくほかのだれかのために生きる人生は、決してつらいものでもなんでもなく、それこそが自分のためであったと、自負を持って生きています。
最後に、今回なぜこんな記事を書いたのか。
今後は自分のために生きようだなんて、結局性分というものには逆らえないので、甚だ難しいのですが。
それでも、自負を持てるかどうかで心持は変わるのだと、改めて感じるようになりました。
無理やり自立することを決めて、今のものをかなぐり捨てることを決断した今、書いてみたいテーマとして書かせていただきました。
哲学的であるようで、一人の人間の内面でしかないので、あしからず。
以上
aru