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葉山へ.....1980年代 ①

市ヶ谷から葉山へ引っ越すことが具体的になって、建築設計士がよく家を訪れていた頃、私は2年に及ぶハワイ暮らしを終えて帰国したばかりで、赤坂見附のインド料理店でアルバイトをしながら遊び暮らしていた。言い訳ではないが遊びたかったのではなく、次なる目標が見つからず悶々とした日々を送っていたのである。その時は「湘南」も「葉山」も知らなかったし、東京を離れるのが嫌だと言ったら、海の近くなのよ、ハワイと同じじゃないの、と返された。否、海はあってもあの海じゃないし第一、太陽の光が違います!.............ホノルルで日々、海辺の暮らしを満喫した後では、葉山は少々精彩を欠いた、ただの田舎に過ぎなかったのである。

翌年、いよいよ引越してからも海へ行くわけでもなく、暇さえあれば横須賀線に乗っていざ、東京へと繰り出していた。アラビア語とフランス語を習いにというのが一応の用事だった。親に内緒でパリへ行ったのもこの頃だ。ある日、フランス語の先生が明後日行けるのならツアーが半額なんだけどと.........そういうわけで初めて添乗員付きのパッケージツアーに参加した。そんなこんなの日々の中、ひょんなことから旅行代理店でのフルタイムの仕事が決まって、片道2時間半かけて通勤することになり、あの恐るべき満員電車に放り込まれることになったのである。

だがしかし、私は根はとても真面目なのである。そして負けず嫌いでもある。だからそうなったらもうただ黙々と働き、格安ツアー、格安チケット販売でけっこうな売上を作ってしまい、ご褒美に台湾旅行に行かせてもらったり、航空券とツアーの仕入れをまかされたりして、なんだか勢いづいた日々を送ることになっていった。

金曜日の夜のフライトで香港に遊びに行き、月曜日の朝に普通に出勤するなんてこともやっていたし、大手広告代理店のCM撮影の手配をして、後から現地視察と称して行ったこともある。1980年代初頭、旅行代理店なしでは、パスポート取得もおぼつかない人がたくさんいた時代、当時は花形職業だったのだと今、振り返って思う...............。

初給料で母と弟に「葉山マリーナ」でフランス料理をご馳走したことがありその時、こんなに海に近いところで暮らしていたんだとやっと気がついた。春の日の太陽が燦々と降り注ぎ心地良かったことを覚えている。確か、その次は逗子マリーナだったと思う。母にスペアリブを注文したら、何これ、犬のエサ?と言われたんだっけ。

通勤ラッシュを9ヶ月こなした後、忙しいからもう通勤なんて無理、と親に引越費用を無心して東京に舞い戻った。葉山に残した思いなんてさらさら何も無かった。まさかの数年後など知るよしもなく..................。


*写真の葉山マリーナは2011年7月に撮影したもの。この姿に建て変わる前の旧・葉山マリーナにはプールがあった。確かエメラルドプールという名前で、日がな一日ボーッとできるような雰囲気があった。私のいとこは取り壊す寸前に結婚式をした。時間制限無しののんびりしたパーティーだった。後年、新しくなったこの建物で弟もまた結婚式をした。


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