熊野の門前に立って(2)
熊野についてはほとんど知らない私らが、何かを見よう、感じようと思うと何を見たらいいのか戸惑うところがありました。この感覚は少し身に覚えるものがあります。私は小学校の多感な時期を遠野に住んでいて、その魅力に染まったのですが、遠野を訪れる人に遠野の魅力の真髄を知りたいと言われて、どこに行って何を見たらいいかと尋ねられると、少々困ってしまいます。遠野の魅力は名所観光ではなかなか伝わらないし、遠くの山々や足元の草木も魅力の一要素であるし、目に見えないものが魅力でもあるのです。
なので、数時間の観光で解ろうなどとは思ってないのですが、その真髄の一端に触れるにはどこに行けばいいか、やはり地元の人に聞いてみるべきだろうと思いました。ついた日の夜に私が今回お世話になる作家仲間の今井さんにそう尋ねると、神内(こうのうち)神社に行くことを勧められました。さぎりの里での展示の翌朝、四国に向かう途中で寄ることにしました。
のどかな里山を走る途中で引作の大楠という小さな看板が目に入ります。巨樹、古木は気になるものなので、寄ってみました。引作は湾のような斜面地に寄り添う集落でここ自体も趣があります。その一番奥の高台にその大楠はありました。
ちょっと想像を超えた巨樹ぶりに言葉を失いました。樹齢1500年。私らが住んでいる豊頃町にはシンボルとなっているハルニレの巨樹がありますが樹齢150年。爺さんと孫以上の差があります。
北海道は木の国の趣はありますが、かなり切ってしまっていて、巨樹、古樹は少ないのです。厳しい環境なので成長も南国の比ではありません。樹齢1500年の巨大さと威厳に圧倒されます。こんな木でも伐採される危機があったそうで、南方熊楠の尽力で護られたとか。
隣にもかなりの大木。新緑に覆われる梢も大きく優しい。
ここだけでもかなり満足して後ろ髪引かれる思いで神内神社へ向かいます。
神社に向かう途中「宮田」の看板があります。天皇のために田ということか。
谷間の奥まったあたりに神社はありました。大きな社殿などは見当たらず鬱蒼とした社叢が目に入ります。それも管理されたものというよりは原生的な杜です。小さな渓流が脇を流れ、せせらぎの音と鳥の声に包まれます。
鳥居をくぐるとすぐに巨石が目に入ります。そこ自体が既に聖地のような神聖な空気が立ち込めています。岩の間に入り込み、木漏れ日を浴びて耳を澄ますと異世界に連れて行かれる気がします。
そこから歩みを進めると本殿に至ります。本殿と書きましたが、建造物はそれは小さな入り口に過ぎず、本体は巨大な岩なのです。
巨大な岩の窪みに小さな祠が祀られていますが、その祠は目印にしか過ぎないことはすぐにわかります。この巨大な岩が神体であり、社殿なのです。
昨晩、地元の方に磐座(いわくら)信仰について伺いました。巨大な石や岩に神聖な力を感じて祀る原始宗教的、アミニズム的な信仰です。この感覚は日本人にはすぐにわかるものですし、世界で見受けられるものです。
ここはその磐座信仰と神道が素朴に結びついた神社の原型のような場所なのです。
もう一つの主役は森です。原生林のような趣の森にはかなりの巨樹が散在してます。その存在感と暗がりもまた神聖なものを感じさせます。
今井さんにおすすめされた社殿の裏側の「蘇りの木」の根元、祠のようになった窪みに身を置いてみます。優しくも強い感覚に包まれたという真紀ほどではありませんが、至福の数分間を噛み締めることができました。
ここを勧めた気持ちがわかった気がします。熊野の魅力の真髄の(ほんの)一端に触れた気がしました。この「自分に帰る」という感覚を求めて熊野を訪れるのでしょう。
原始宗教の原石に触れて、得るものはありました。
1日かそこらで、その一端に導いてくれた今井さんや地元の方に感謝します。