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2022芸術療法学会で発表してきました
みなさま、こんにちは。
先日(2022/11/6)開催された第53回日本芸術療法学会にて、演題発表をして参りました。
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芸術療法学会は年に一度開催されているのですが、今回の開催地は東京・八王子。
会場は八王子ホテルニューグランドという古めかしい(?)ホテルでした。
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先生方の講義も他の方々の発表も聞きたくて、八王子に泊まってガッツリ2日間参加してきたのですが、本でしか知らなかったような著名な先生方と直接お話しすることができ、とても貴重な機会となりました。
しかも、私の発表の座長をしてくれたのが、関先生…
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「臨床アートセラピー 理論と実践」の著者の、関則夫先生でした。
(この本何度も読みました)
私はNHSでのケースについて事例発表をしたのですが、緊張とパワポの不具合とでかなり慌ててしまい…(というか私、この学会の現地参加自体が初めてで)
それでもある先生から「素晴らしい発表でした」と優しいコメントをいただき、発表後いろんな方が声をかけてくださり、感無量でした。(ありがとうございます)
***
日本のアートセラピーが今どうなっているのか、どんな方向に向かっているのかを肌で感じるのに、学会参加はとてもいい場所だなと思いました。
今回現地参加して初めてわかったのですが、今の日本のアートセラピーを牽引する先生方は、USをはじめ海外で学ばれた方が多く、かつそれぞれの流派もあって、
一口に「アートセラピー」と言っても、異なる背景を持っているのですね。
みんながみんな同じ「アートセラピー」という一つの概念を共有している訳ではなく、
「〇〇先生はユング心理学をベースにしたアートセラピー」
「〇〇先生は力動的理解をベースにしたアートセラピー」
という感じで、ちょっとずつやりかたが違うわけです。同じ道具で違う使い方をするみたいに。
例えば今回、先生方のシンポジウムのなかで、「アートセラピーにアートセラピストは必要か?」という議論が起こっていました。
「アートそのものに治療効果があり、アートセラピストは“異物”である(だからその影響を最小限にとどめるべきである)」
という先生もいれば、
「アートセラピストがいて初めて、アートセラピーは“治療”として成り立ち得る(セラピストのいないセラピーはない)」
という先生もいました。
この議論、すごく白熱して、聞いている一般人としてはとても面白かったのですが、
私はこれって、どちらも正解であり、不可分なことだなと思いました。
実際にアートセラピーをやっているとわかるのですが、
いや、アートセラピーに限らず、全てのセラピーに言えることかもしれませんが、
セラピストって、クライエントにとって、“必要なもの“になったり、“異物”になったり、あるいは机や椅子みたいに“単なる環境の一部“になったりすると思うんです。
つまりクライエントにとってのセラピストの存在や必要性って、一定なものじゃなくて、場面やプロセスによって変動するんじゃないかと私は思っているんです。
***
例えば、初回面接。
ここにはセラピストが絶対必要ですよね。
心理療法はそもそも、クライエントとセラピストが治療契約を結ぶところから始まりますから。
そして「アートの機会を提供する」「クライエントが表現し始める」ためのイニシエーターみたいな役割を果たすのもセラピストであることが多いと思います。
でも、クライエントが、アートのプロセスにのめり込んでいる時はどうでしょう?
そこにセラピストが介入したら、結構な邪魔ですね。
みなさんもないですか、作業に集中してる時にいらんこと聞かれてイライラしたこと。
そういう時のセラピストの役割は、壁や机みたいにその“部屋”の一部になること、
クライエントの表現行為・創作行為を邪魔せず内包する“場所”になることじゃないかと思うんですね。あるいはケースによっては、目撃者だったり、伴走者だったり、プールの監視員みたいなものになったりする必要があるわけですが。
で、クライエントが現実の水準にスーッと浮上してきた時は、こちらもまた“人間”として対峙する。その時はクライエントも、作品を共有したり反応を得るための“相手“としてのセラピストを必要とするわけです。
こういうのって言語の心理療法でもあって、
「あ、今このかたはご自身の思考をまとめようと集中している」
「あ、今このかたはご自身の本当の気持ちを探ろうとしている」
と察知したときは、「邪魔をしない」ことに細心の注意を払います。
(そういえば、私が学生の時指導してくれた教授は、「クライエントの邪魔をするな!」と口癖のように言っていました)
もちろん、クライエントがセラピストに、内界へ“一緒に潜る”ことを望むこともありますから、その時は一緒に潜ります。
ダイビングのインストラクターみたいになったり、ただのゴミ箱になったり、
クライエントのお母さん的なものを引き受けたり、攻撃対象になったり。
セラピストはセッションの中で実にいろんな役割を引き受けています。
邪魔になったり必要とされたり、怒りをぶつけられたり揺さぶられたり。
そして、セラピーの最後にちゃんと現実の世界へ引き戻して、
少し気分を整えて、しっかり帰れるようにする時も、やっぱりセラピストが必要です。
***
お話がだいぶ大会からそれてしまいましたが、
そんなふうに、今の日本のアートセラピーの中心となっている先生方のお話を聞けて、
とてもいい刺激になりました。
普段の自分の臨床を振り返る機会にもなりました。
今回は妹も会場に発表を聞きにきてくれて(彼女も医療者です)、
学会の後一緒に時間を過ごしました。彼女にとっても良い刺激になったようです。
学びたっぷりの学会を終え、大会長の三根先生からも温かいお言葉をいただき、
本当に参加してよかった、と感じています。とても素敵な会でした。
先生方はもちろん、参加してくださった方々、発表を聞いてくださった方々、そして学会の事務局のスタッフの方々には感謝の気持ちでいっぱいです。
ありがとうございます。
それでは、また次のnoteでお会いしましょう。