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File.41 唯一無二の芸じゃない芸で距離を超える サンキュー手塚さん(大道芸人)

このところ大道芸を見ていて感じるのは、ジャグリング系が多いなあということ。その技術の進歩は目覚ましく、観客は息を飲む。息を飲んで、息を飲んで、息を飲んでばかりで少し苦しくなってしまう。たまには飲む込んだ息を吐き出して、ただただお腹を抱えて大笑いしたい。日常のささいな瞬間を拡大し、秀逸な間と呼吸で笑わせる天才が、サンキュー手塚さんだ。新型コロナウイルス感染症は、路上のスターにも影を落としていた。
取材・文=今井浩一(ライター/編集者/Nagano Art +

——コロナ禍では大道芸の活動はどのようにされていたのですか?

全国一斉休校が発表されたあたりからイベントが中止になりまして、そこから全滅ですね。東京都のヘブンアーティスト事業で会場となっている場所はそれでもなんとか続けられましたが、緊急事態宣言が発令されてからはダメでした。久しぶりにお客さんの前に立ったのは7月です。名古屋の業者さんが大道芸フェスティバルを企画してくださって。仕事量としては前年の5分の1くらいになってしまいました。
大道芸人の常套句って「もっと近くに寄って」じゃないですか。そしてお客さんに手伝ってもらったりいながら空間をつくり上げるのが醍醐味。それができないとなると、一方的に見せるだけになってしまいますから、なかなか難しいところに来ています。

——手塚さんはどういうきっかけで大道芸を始められたんですか。

大学時代に暇をしている時期があって、そのころ出会った先輩がパントマイムをやっていたんです。路上で芸を披露して投げ銭をもらっているのを見たんですけど、それ自体が不思議でした。だって勝手に見せておいてお金までもらうんですよ。図々しい(笑)。僕もそれで奢ってもらったりしていましたから、これはいいなあとやり始めたのが最初です。90年代始めかな。合コンで披露するとウケるものですから、どんどんハマって練習も一生懸命やりました。それでパントマイムの師匠でもあるハッピィ吉沢さんに連れられて1年くらいで路上に出たんです。

——高校時代に演劇をやったりとか、大道芸につながるベースはあったのですか。

僕は野球部でした。もう地獄で、早く3年が過ぎないかと考えていたことしか覚えていません。性格が控えめなので、今もですが、芸人をやっていることが不思議でならないんです。当時も決して自分から前に出たりはしないんですけど、よそのクラスから声がかかれば先生の形態模写をやりにいっていました。大人しいけど、ひょうきん(笑)。それが素養だったのかもしれないですね。

——そのころの大道芸業界はどんな感じだったのでしょうか。

僕が理解している範囲で言いますと、僕が路上に出始めたときに近代日本の大道芸が始まったくらいだと思います。それまでも先輩はいましたが、竹の子族が隆盛で、すごくマイナーな存在でした。ある時、日本はテーマパークのバイトのギャラがいいということで外国人ジャグラーがどんどん入ってきた。その人たちが上野公園でやり始め、そこに大先輩のギリヤーク尼ヶ崎さん、雪竹太郎さんとか草分け的な方も加わったのが1992年で、そこがビッグバンみたいなものかなと。
下世話な話ですけど、1カ月分のアルバイト代が1日で稼げたんですよ。バブルは終わっていたけれど、余韻はあって、若者が街頭に立っていれば大したことをやっていないのに、おじさんおばさんが「頑張って」みたいな感じで1000円札を普通に入れてくれた。それより何より、お客さんが見て喜んでくださるのがうれしくて、のめり込んでいきました。

030うどん

——オリジナリティについて考え始めたのは。

大道芸は始めたもののパントマイムやクラウン、サーカスとかには興味がなくて。それよりもドラマやお笑いが好きで、先輩方が白塗りのピエロメークをしているのもどうなんだろう?と見ていました。だから最初は顔を半分だけ白くして、ニッカポッカを着たりと目立つためにかなり奇をてらっていました。音楽もチャップリンではなく、沢田研二さんとか歌謡曲を使っていました。オリジナリティというより自分がやりたい世界ですね。

——手塚さんの場合、普通のことをやっていても面白いというか。

僕のネタに芸はあまり入ってないんですよ。入っていた方が皆さん納得してくださるのかもしれませんが、どうも外そう外そうとしている自分がいまして。技をできるだけ排除して、ストーリーを見せたいというきらいはありますね。もっと若い世代にバカなことをやる人が現れるかと思っていたら、若い人ほど真面目。僕らは雑多な新宿の、お祭り騒ぎの大通りで育ったものですから、猥雑というか混沌とした芸ですけど、若い人たちは本当にスマートで無駄がない。見せるべきものだけ見せている。だから逆に僕なんかが突っ張ってやっているんですけどね。

——ヘブンアーティスト制度(2002年スタート)ができる前の新宿は、日曜の歩行者天国などエネルギーにあふれていましたね。いろんな人がいました。

あのころ新宿でいいショーができると、街を乗っ取ったような気持ちになれましたね。新宿にいるすべての人が僕を見ているというか、そのくらい大きな輪になりましたから。
当然、ホコ天といえども道路交通法違反ですから、おまわりさんに怒られるわけです。そうするとお客さんが「やらせてやれー」と声を上げて助けてれて。それに対し、今度はおまわりさんも大勢でやってきて、結局は排除されてしまうわけですが、そういう熱いものをもらえました。パフォーマー仲間ができたり、ちょっとした共同体のようで楽しかったですね。

——そこから大道芸のスターへと駆け上がっていくわけですね!
スターじゃないです(笑)。ここまでお話ししたのは素人時代です。投げ銭をいただいているので、素人と言っていいかはわかりませんが。新宿歌舞伎町の大道芸コンテストで優勝してからだんだんと出る場が全国区になって、静岡の大道芸ワールドカップにつながっていきます。芸なのかなんなのかわからないものをやっていたので、僕が出ることには賛否両論ありました。当時使っていたカバンも本当に汚いんですよ。ほかのプロのパフォーマーは道具も綺麗だし、ちゃんとしているのに。最終的に大道芸ワールドカップで優勝して200万円いただいて、これはちゃんとやらないとまずいなと思ったんです。静岡の皆さんに悪いし、大道芸の先輩方に申し訳が立たないと心入れ替えました。2000年のことです。

——その辺が海外に行くようになった足がかりでもありますよね。

大道芸ワールドカップにカナダのプロデューサーが来ていて、すごく気に入って、声をかけてくださったんです。2000年7月に初めて海外のフェスティバルに参加し他のですが、それがウケまして、またいろいろ呼ばれるようになって、2007、8年まで毎夏ドイツ、スペイン、フランスなどを回っていました。そのころは交通費も全部出してくれましたし、ギャラもよかったんです。ところがリーマンショックを期に渋くなり、宿も相部屋になるようになって。そのタイミングで今度はアジアに呼ばれたことでヨーロッパを離れました。

フランスハードル

韓国ハードル

——ネタは今、何本くらいあるんですか。

100〜150本はあると思うんですけど、使えるものは20、30本かなぁ。時事ネタはどうしても賞味期間が短いですから。そういう意味では3年に1本、10年やれるネタができればいいかなぁ。

——手塚さんご自身のお気に入りのネタを教えてください。

……実はあまりないんです。「愛」というゼッケンをつけて小さなハードルをいくつも乗り越えていくネタ。ホイットニー・ヒューストンの「I WILL ALWAYS LOVE YOU.」を流して梅干し、海外ではレモンを食べてすっぱい顔をするネタ。顔に黄色のマジックバルーンを巻いて表情で明るさを表現する「電球」というネタ。この3つは海外でもウケるので安心感があります。ネタによっていろいろな育ち方があって、ホイットニーはこんなのがウケちゃうんだというようなものなんです。ホイットニーの大ブームがあったので2年くらいは大ウケだったんですけど、だんだんキツくなり、お客さんと梅干しを食べさせあうことで違った面白さが生まれました。10年くらいかけて育てて27年になります。

——もうすぐ30年ですか! ホイットニーで全国ツアーしてほしいです。

あははは! 海外でもバカみたいに笑ってくれるんです。ホイットニーが亡くなったときは、関係者でもないのに僕のところにものすごく連絡がきて、ちょっとしたホイットニー・バブルで仕事も増えました。これからも大事にしていきたいんですけどね。

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——今後のことはどのように考えていらっしゃいますか。

(年明けの取材時)普段だと春の仕事が入る時期なんですけど、ほとんど情報が聞こえてきません。まずは大道芸をやるだけなんですけど、生活するとなるとパーティやイベントがないとキツいんです。そこが見込めない。正直この先どうなるかはわかりません。大道芸フェスティバルも、自治体がかかわって商店街でやるのが難しいらしいです。以前は人を集めるためにやっていたけれど、今は集めないでくれと言われるんですって。外で距離を取れば大丈夫かと個人的には思うんですけど、そのために距離を取っても面白さが伝わるネタを考えないといけませんね。
コロナ禍でYouTubeを始めましたが、とにかく表現はやめてませんということを発信していきたいです。僕は動画が億劫だったんですけど、いざやってみると構成の勉強になる。3月までは週1本、その後は週2本くらい発信していこうと思います。

劇場勤めをしているころ、商店街を舞台にした大道芸フェスティバルの担当をしていた。いくつもの地域の大道芸フェスを見て回った。どこへ出かけても、パフォーマーを囲むお客さんたちは、老いも若きも口を開けて大笑いしている。とても幸せな空間が立ち上がる。長く培ってきた芸を披露することで紡がれる観客との“共感関係”。ほんの20〜30分のパフォーマンスが終われば、風が掃除するように観客も大道芸人もいなくなって、その場は日常の風景に戻っていく。コロナ禍、「密だ」「飛沫だ」でそんなひと時が失われてしまっているのが悲しい。劇場やオンラインの中から大道芸人が解き放たれる時が早くきてほしい。

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サンキュー手塚(さんきゅーてづか)
1968年、長野県に生まれる。早稲田大学在学中にパントマイムを学ぶ。既成のパントマイムの枠を超えた斬新な発想で、各地の大道芸フェスティバルやイベント、舞台にて活動。1999年にはアジア最大級の大道芸フェスティバル『大道芸ワールドカップin静岡』でワールドカップ受賞など受賞歴、海外公演も多数。2012年からは東京芸術劇場主催の『ストリートアーティスト・アカデミー』の講師を務め、若手パフォーマーの育成にも尽力している。

公式サイト https://www.39tezuka.com/
YouTubeチャンネル https://www.youtube.com/channel/UCArtWQgwc855dEKNMT883CQ

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