Fie.40 日本中に笑いの処方箋を 笑太夢マジック/笑太夢さん・キラリンさん(マジシャン)
笑太夢さんとキラリンさんの「笑太夢マジック」は、どちらが欠けても成立しない最強のデュオ。マジックを通して笑いと夢を一人ひとりに届ける太陽のような存在でありたい、というメッセージは、二人の人生に裏打ちされた言葉だ。
数年前、癌の末期を告げられてからMRIに入るキラリンさんの脳裏に浮かんだのは、いつも変わらない夫の「変顔」。笑いはフェイクでも健康に効くというが、機械に入り不安でいっぱいになるはずのキラリンさんは夫の顔を思い出して笑いが止まらない。検査の結果、彼女は「ステージゼロ」になっていた―。
取材・文=田中未知子(瀬戸内サーカスファクトリー代表)
——笑太夢さんにお聞きします。笑太夢さんは、かの初代・引田天功さんの事務所からキャリアをスタートされたのですよね。マジックとの出会いなども教えてください。
事務所に入った頃はまだ学生でした。父がマジック好きで、私が3~4歳の頃、押し入れの中にマジックセットがあったのです。幼くて文字は読めませんでしたが、イラスト図解をみて少しずつ覚えて、親戚が集まると披露して……。小さな子どもがマジックをやったらみんな喜ぶので、自分も嬉しくて。
その後、高校生のとき、陸上部の先輩を送る会で披露する芸はないかと考えた時、昔マジックやっていたことを思いだし、住んでいた石川県金沢市のデパートにマジック道具を求めにいったのです。そこに販売のための実演ディーラーがいて、そのマジックに一瞬で魅了されました。目の前でコインやスポンジが消えるのがあまりに不思議で、世の中にこんな素晴らしい芸があるのかと感動しました。そして、17才で人生の道は、これだ!と決めました。陸上練習が早めに終わる毎週土曜日、閉店間際のデパートで芸をみて、マジックを覚えていきました。
——当時一世を風靡していた初代・引田天功氏の事務所に、どのように入られたのですか。
ショーを観るためにマジック大会に通っていて、毎回同じような顔ぶれの人たちと会いました。その中の一人が引田天功事務所の事務員をしていて、紹介してもらいアシスタントとして雇ってもらったのです。しかし天功氏が45歳の若さで逝去し、そのあとはどのような道にいくか、試行錯誤しましたね。
——天功氏といえば、奇跡の脱出劇といった大規模で派手なパフォーマンスで有名。笑太夢さんが目覚めたパントマイムの世界とはずいぶん違う世界ですよね。
実はマイムを始めたきっかけは、天功氏とは関係がなくて。当時、いわゆる燕尾服にシルクハットを小粋にかぶって鳩を出すようなマジシャンに憧れて、そのようなコスチュームで舞台に立っていました。ところがある日、楽屋の鏡に自分の姿が映った瞬間、「これは違うな」と思ったのです。イメージしていたのは海外の七頭身くらいの恰好いいマジシャンでしたが、鏡の中の自分は…(笑)。そこで浮かんだのがチャップリン。チャップリンを目指すならパントマイムが必要だろうということで、さっそく習い始めました。そこにキラリンがいました。
——キラリンさんは、最初に衝撃を受けたパントマイムがあったと聞きました。どのような舞台だったのですか?
それが、その後に師匠となる、あらい汎氏による『男のバラード』という舞台でした。サラリーマンの一日をパントマイムで表現していたのですが、初めて見た肉体表現に圧倒されました。言葉なしでこんなに感動を与えれるのか!と。そして、私も17才で自分の人生の道はこれだ!と決めました。
——笑太夢さんがめざすマジックはどのような世界ですか?
もともと、単に技術を見せるのではなく、自分の思いや思想を、マジックを通して表現したいと思って入りました。表現したいことは、笑いによる「平和」です。
今の若手マジシャンのテクニックは本当に素晴らしいです。しかし、それだけではなく、心を伝えるには、演技力とキャラクターが大切だと思っています。他と同じではない独自のカラーを出していく必要があるし、アイディアは限りなくある。それを演出に具体的に落とし込んでいくのはキラリンで、彼女が台本や造形イメージもつくります。
——笑太夢マジックといえば、エコロジカル・マジックも面白い取り組みですよね。
エコロジカル・マジックは実は30年以上前から取り組んでいます。最初はお掃除マジックという形でしたが、次第に発展して「リサイクルマジック」や、食品ロスをテーマにしたマジックなどに取り組み始めました。最近はSDGsにも踏み込んで作品を作っています。
二人でコミカルな和妻(わづま=日本に古くからある伝統的な奇術)に取り組んでいます。江戸時代はまさにリサイクル社会ですからここに到達するのは必然ですね。日本の文化を面白おかしく表現できたらと。「江戸時代はエコ時代」、どんどん深めていきたいと思います。
また、「蘇生」というテーマもわれわれにとって重要です。動物や人間が生まれ、花が咲き、枯れても、また地面から再生します。昔、マルセル・マルソーは青年、壮年、老年、死というテーマで演じましたが、私たちは「死」で終わらず、永遠に生命はつながっていくイメージを8本のフラフープを使って表現しました。タイトルは、『chain of life』。東京都のアートにエールを!という助成金を使わせて頂き、映像化いたしました。
——キラリンさんは「笑いがひとを救う」ことを、ご自身の体験を通じて実感されたと聞きました。
いまから9年ほど前に癌を発症し、ステージ4という診断結果。食べ物にすごく気をつけていましたが、公演本番3日前に市販のお弁当を3日間食べたら、あっという間に末期に! 1カ月半ほど経ち、MRI検査を受ける事になりました。
笑太夢は顔芸マジシャンだけど、舞台より変な人なので、毎日、死ぬほど笑っていました。信じられないと思いますが、負ける気が一切しませんでした。MRIに入ったときも、主人の顔を思い浮かべたら笑いが止まらなくて! そしてその時、習字の文字で「希望」という漢字が浮かんできました‼︎ 何度見ても、堂々と太い文字で希望って書いてあるのです。そうか、希望の意味は、確信っていう意味だったのか!と、MRIの中でルンルンしていました。
2日目にPET検査。今度は何が起きるのかワクワクしていました。自分ひとりで癌細胞をやっつけるぞ!と頑張っているつもりでしたが、こんなにワクワクしてる自分はおかしい!とわれに返ったのです。これって、自分のおかげじゃないぞ、皆が私のことを思ってくれているから私は元気なのだ、と気づいたら、感謝感激で涙があふれ、PET検査中に泣きながら「これからは、ガンの人、病の人を励ましてまいりま~す!!」と決意発表をしていました。それから、1週間後、検査結果を聞きにいくと「ステージゼロです」と言われました。ガンが見事に退縮していました‼︎
実は、癌になる2年前に、癌を笑い飛ばすという、実話をもとにした劇団ザ・ライフカムパニーのミュージカル『ホスピタルホスピタル』という舞台を見て感動していました。もし自分がガンになったら私もそうなりたい!と決意していて、それが、本当にその通りになったのです。
作家がお客様に希望を与えたいという気持ちが、知らないうちに私の体のなかに入っていたのでしょう。作家の想いは必ず、伝わる!! だから、わたしも自分の生み出すパントマイムマジックは、心から元気と希望を贈るものでありたいと、決意しています。昨年末、乳がんの姉が私たちの公演をみて次の日、ガンが半分になっていたのも本当の話です。さらに心が元気になる笑いを追求していきたいと思います。
——今後はどのような活動をしたいですか。
ワークショップなどはオンラインでやりやすいので、今後もできたら良いなと思います。けど、やはりリアルな公演で365日、子どもたちに笑顔を届けたいです。日本中が、文化で元気になるのが当たり前の世界にしていきたいですね。
インタビュー中、「ステージの上だけじゃないの、この人いつも本当に変なの」とくすくす笑うキラリンさん。お二人の生きざまは、まるで「笑いを届けるための、人生をかけた大芝居」のよう。どこまでがステージでどこまでが生活かの境目すらなく、ひたすらに笑いの蒸気を噴き出しながら、これからも突き進んでいくのでしょう。そのエネルギーに巻き込まれる、幸せな観客でありたいと思わずにいられません。
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笑太夢(しょーたいむ)
笑太夢マジックのリーダー。1976年、故・初代引田天功のもとで活動を開始し、マジックにパントマイムを取り入れ注目を浴びる。その後「インターナショナルフレンドシップマジックコンベンション」で準優勝、国立劇場演芸場「花形演芸会」で銀賞。上海で行われた「世界マジックフェスティバル」では銅賞を受賞するなど国内外のコンテストに入賞多数。99年新橋演舞場『花の天勝』に1カ月出演。文化庁芸術祭参加公演『いのちの不思議・魔法の森』『カルーア伝説』を発表。
キラリン
1980年衝撃的なパントマイムに出会い、あらい汎氏に師事。93年より、笑太夢(林太一)とのコンビで、マジックにパントマイムを取り入れた笑太夢マジックを築く。 99年新橋演舞場『花の天勝』に1カ月出演。文化庁芸術祭参加公演『いのちの不思議・魔法の森』『カルーア伝説』を発表。
公式サイト http://www.showtime-magic.com
YouTubeチャンネル https://www.youtube.com/channel/UCbaYWahr0bqyDr7EtotLOrA