Vol.62 撮ることで起きること、生まれるもの 菅原康太さん(写真家)
——菅原さんは、広告などのクライアントワークとご自身の作家活動を併行されていますが、どういった経緯で今の活動スタイルになったか教えていただけますか。
学生時代から、写真教室に通ったり、写真家の事務所でアルバイトしながら、写真を撮り始めました。最初はジャーナリズム志向もあって、新聞社や出版社、テレビ局を進路に考えていたんですが、面接を重ねていくうちに、自分は記事を書くことより写真に興味があると気がついたんです。それで撮影スタジオのスタジオマンになりましたが、すぐに辞めてしまい、アルバイトで生計を立てながら、アジアやヨーロッパをふらふらと旅していました。写真と言っても色々なジャンルがあるので、まだ方向性が定まっていなかったのだと思います。そんな旅の途中、ベトナムで出会った船乗りの青年の仕事ぶりに感銘を受けて、職人として生計をたてていくことを決意し、写真家の仕事が直接見られるアシスタントになろうと帰国しました。桐島ローランドさんのアシスタントを3年くらい経験して、2009年に独立しました。当時は東日本大震災があったり、リーマンショックがあったり、あまり景気がいい時代ではなかったんです。ですから、時間はあって、自分で好きな写真を撮ったりもしていました。そんな中、2012年に知り合いだったダンスカンパニー、AAPAの上本竜平さんが、横浜の黄金町であたらしい舞台系のプロジェクトをやるのに、一緒にどうかと誘われて。脚本・演出家の石神夏希さんが出演する一人舞台で、昔の「チョンの間」で演じられるんですけど、その主人公の一人暮らしの様子を写真で捉えていくという役割を担いました。その時に、ディレクターの山野真悟さんとも出会って、「面白かったので、石神さんと二人でまたやってみたら」と勧められ、黄金町バザール2013で、菅原康太+石神夏希として参加しました。
——今も主な活動地域にされている横浜とのつながりができたのは、その頃からですか。
そうです。黄金町の作品を観に来てくださった方に、横浜にクリエイター向けのシェアオフィスがあって、空きがあるので入らない?と言われて。一人だとオフィスを借りるのは経済的にきついけど、誰かと一緒だったらというので、石神さんが所属する演劇集団「ぺピン結構設計」と入居することにしました。馬車道の「宇徳ビル ヨンカイ」です。そこに2年間いて、クリエイター同士のつながりでお仕事をもらうようになり、『横浜ダンスコレクション』とか『音祭り』なんかの記録撮影にも呼ばれるようにもなりました。舞台芸術を撮るって難しいんです。「その瞬間」を撮るなんてできないので。それでもダンスだけ、演劇だけを撮り続けている人とはきっと違う撮り方ができていると思うし、関わらせてもらっている限りは自分自身をアップデートしながら向き合っていきたいと思っています。
——現在も横浜に事務所を置かれているんですね。
南太田ブランチというシェアアトリエに入居しています。僕以外は、画家やダンサー、アジアン雑貨店の方です。一時、もっと郊外の大船に個人で事務所を借りたんですが、ちょうどコロナ禍が来て、会うのはアシスタントだけという引きこもり状態になってしまって。もう少し交流を持ちたいし、賑やかなところに出たいなと。
——横浜にある左近山団地とそこに暮らす人たちを撮る新たな取組を始められたのもコロナ禍のさなかでした。
最初はクライアントワークに近い形で始まったんです。STGKというランドスケープデザインの会社の代表の熊谷玄さんという方が、老朽化しシャッター街になってしまった地元の団地を見かねて、アートプロジェクトを運営したり、みんなが立ち寄れるカフェアトリエ(左近山アトリエ131110)をつくろうとしていて。その過程を記録してほしいと頼まれました。「1年ぶんのプロジェクト費を渡すから何かやって」というような大まかな感じだったので、まずはちょくちょく通いながら活動を追いつつ、団地の様子を撮り始めたところでコロナが来ました。それで一時は自分も行かなくなったし、行っても誰もいないような状況になったんですが、やっぱり関わった当初から商店街で出会う人にすごく魅力を感じていたので、「あの人元気にしてるのかな」「見かけなくなって寂しいな」と思うんですよね。そこで、今こそ写真で何かすることができるんじゃないか、つまり、撮影を口実にその人たちを外に連れ出すことができるんじゃないかと思いつき、日にちを設定し希望者を募るかたちで、撮影を始めました。
——希望者は順調に集まりましたか。
アトリエの常連さんやスタッフの知り合いに声をかけ、商店街の会長さんにも協力してもらっていろんな場所にチラシを置いてみると、結構、申し込みがありました。ただ、やっぱり平日だと空いちゃうこともあったんですね。そんな時は自分で公園に行って、暇そうな人に声をかけたり。普段なら話すこともないような、Youtubeの配信をやってる高校生たちともそうして出会いました。また団地に地域学習に来ていた子供たちに被写体になってもらって、僕も学校に出向いて授業させてもらったりもしました。結局、総勢で70組以上を撮影して、プロジェクトの名前でもある『左近山とわたし』という写真展を左近山アトリエ131110でやりました。その後、行政からのバックアップもあって横浜市役所でも展示できましたし、自分にとっては大きな出来事になりました。
——『左近山とわたし』のポートレイトを何点か観ましたが、被写体の方々の表情や立ち姿に、その人の生活や団地で暮らして歴史が反映されているような奥行きを感じました。
今自分が立っている場所について想いを巡らせてほしかったんですね。大げさな言い方をすると、どんな人生を歩んできて、今、この左近山団地にいるのか。だから撮り始める前の30分くらいは、いろいろ質問して、会話するんです。身の上話が出てくるなかで撮影場所を決めたり、自然な流れで一緒に出かけて撮ったり。コロナに対する意識があって、マスクをとって、堂々とカメラの前に立って欲しいという思いも強くありました。だからこそ、撮る時のコミュニケーションについては、普段よりもいっそう重要視した面もあります。
——被写体の方々にとっても、得難い時間、記録になったんじゃないでしょうか。
展示をやってすごくよかったなと思ったことのひとつは、たとえば被写体の方がお友達を連れて観にいらしたり、そこでほかの被写体の方と出会って、「◯◯さんも素敵に写っているわね」なんて会話が生まれることなんです。その会話がまた、別の話に発展して、広がっていく様子、そういう景色がつくれたことが嬉しかったですね。横浜市役所で展示した時には、80、90歳のおじいちゃんたちが観にきて、自分たちが写っている写真の前で記念写真を撮ったりするんです。面白いですよね。
——菅原さんの写真が、団地の中で、単なる記録以上の「役割」を得たというふうにも言えると思いますが、今後の展開をどう考えていますか。
左近山団地のプロジェクトは、1年間で終わりにする予定でしたが、「もう来ないの?」とすごい言われて。今は、僕に直接申し込んでもらい、日時を決めて撮りにいくというスタイルで、細々とシーズン2をやっています。また、2022年にアーツカウンシルしずおかのMAWというマイクロワーケーションのプロジェクトで東伊豆の稲取という町に1週間滞在したんですが、その時のホストの方が、『左近山とわたし』に共感してくださって、滞在後も連絡をとるうちに、稲取でも何か一緒にやりましょうという話になり、またあたらしいプロジェクトがスタートしつつあります。観光業が栄えた時期に比べれば、確かに稲取も高齢化し、過疎化してはいるんですが、やっぱり独自のコミュニティは生きているんですよね。魚が獲れたら振る舞い合う文化があったり、路地をのぞくだけでもそこに私生活があふれ出てきている。左近山団地でもそうですが、僕はそういう生活感やコミュニティに惹かれるし、エリアにとらわれず、そういうものを撮っていきたい。写真を撮ることって、ひとつのパフォーマンスでもあって。僕は特別有名な写真家でもないし、外から来た人間だけど、そういう人が地域の中に入って撮ることで、生まれてくるものがたくさんあるし、それが面白いと思うんです。
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すがわら・こうた
1981年生まれ。慶應義塾大学卒。2009年より写真家として活動。商業写真をベースに、企業のプロモーションやコマーシャル撮影、舞台芸術の撮影などを幅広く手がける。また、個人や家族のポートレート撮影や地域コミュニティに入り込んで活動を行い、コミュニケーションを十分にとった撮影スタイルで制作を行う。
公式サイト:https://kotasugawara.com/
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