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【北海道開拓の思い出】#29 シベリア抑留からの帰還

親の思いが通じたかどうかわかないが、兄が無事に昭和22年5月20日に帰って来た。

その日は富内の八田の事務所の所長さんから電話があった。4時の列車で窪野幸雄さんが帰ってきた。これから岩美まで行くと暗くなるから、富内に泊って朝帰るようにとすすめたが大丈夫ですと云って帰ってしまったと云うことだった。さあ大変だ、途中までむかえに行かなくては、とにかく、古屋敷の信ちゃんに知らせなければ。

すぐ信ちゃんに知らせたら、一も二もない。晩方なのに俺、迎えに行って来ると走って行ってしまった。私も行けるとこまで行って見ようと走ったが、富内から岩美まで23キロもあった。丁度半分の12キロくらいのところまで行くと、いくら5月でも暗くなってしまった。信ちゃんなんて影も見えない。私もへとへとだけど何とかまた走った。

途中で信ちゃんと兄が会った時、信ちゃんが兄に「ゆっこちゃん、父ちゃんが死んでしまった」と泣いたと云う。兄は何も分からないが、シベリヤから我が古里へ5年ぶりで帰ってきて、一番の友達が親を亡くしているとは思っても見なかっただろう。

すっかり日が暮れて暗くなった。兄がただいまと信ちゃんと家に着いたときは真っ暗で10時近くになっていた。近所の人も何人かいた。私は八田の偉い人が泊っていることなんて気にもしなかった。

母は待って、待って、幸雄と云って泣いていた。よかったよかったと云ってご飯を食べさせた。めずらしく米のご飯だった。お盆とお正月が一遍に来たような喜びようだった。疲れたろうからと云って近所のお客さんも早々に帰り、信ちゃんと兄は下の部屋で二人で休んでいた。

次の日は八田の偉い人3人は帰ってしまったので2階へ行った。信ちゃんと兄は休む。兄は疲れていた。夜中にロスケがボッて来たと云って、夜中に大きな声を張り上げて押し入れに入って叫んでいたこともあった。何があったのか分からないが、ロスケが迫って来た夢を見たらしく夢中で逃げたという。

その頃は食糧難で、ジャガイモの皮をむいたのが一番の高級な食べ物だった。兄がその皮を見て、シベリヤに残っている戦友に食べさせてやりたいと云っていた。

 

※現代では一部不適切なことばがありますが、時代背景を考慮して文中の表現はそのままといたしました。



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