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【北海道開拓の思い出】#24 鉱山の配給生活

クロム鉱山だったから代用食や米も多少多く配給になった。毎日、必死で食べられるものを作った。我が家も岩美の鉱山の事務所へ引っ越していた。母が物置でひき臼で麦やそばをひいた。「朝もダンゴ、昼もダンゴ、晩もダンゴで日が暮れる」という替え歌が流行っていた。毎日それを食べれる人はうらやましがられた。毎日ほんの少しでも配給の鐘が鳴ったら我先にともらいに行く。家には留守番ではなく、配給をとりに行く人がいなければならなかった。

子供が多い人が明日食べられる物がないと云って、裏庭からそっと来て、父が家の分をあげたこともある。古屋敷さんの家のように男の子の食べ盛りの子供がいる家は特に大変だった。

朝鮮の人の家で日本語が話せない奥さんは日本語を多少でも話せる人と組んで配給をとりに行った。配給は一日に2回やる日もあった。何でも配給だった。配給は沢山ではなかった。ランプの油は3合もらえば一週間くらい使える。米が今日は一人2合で、5人1升とかそんな具合だった。配給を貰いに行くだけで大変なことだった。現在は考えられない、そんな時代だった。

働かぬものは食うべからず。食べなければふらふらで、力仕事もできない。口に入るものは何でも食べた。米ぬかだって上等で家族が一人でも多い人は割り当て通り貰って帰った。どのようにして食べたのかはわからない。配給してもらえるだけ幸せと思ったのだろう。

時々米が配給の時もあった。姉が一升枡で測って渡すと、我が家へ持って行って計ったら親指の分だけ足りないという人もいた。それだけ食べるものはお金に換えられない貴重品だった。あの田舎の山の中でもそうだったのだから、町の中で暮らしている人はどんな生活をしていたのだろう。

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