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【北海道開拓の思い出】#8 戦中の物不足

その頃は食料不足で、毎日イモ、カボチャ、トウキビの生活だった。

父は器用なひとだった。家の横を流れる小川に水車を作り、鉱山の家族も多少の畑で野菜を作り、そばやいなきび、麦など作っていた。それを引き臼で粉にしたり、また臼でついたり。それは母がやっていた。暗い中カンテラの明かりで凍れる前の仕事だった。凍れるようになったら水仕事はできなくなる。2か月くらいの間に行う寒い嫌な仕事だった。とても忘れられない仕事だ。

穂別の福山に店は2軒あったが、衣料キップがなければ買えなかった。学校で使うノートもなかった。エンピツが短くなって3センチくらいになったら、それを見せないと新しいエンピツを売ってもらえない。お金があっても品物がないそんな時代だった。欲しがりません勝つまではという言葉が当たり前の時代だった。何でも我慢我慢で暮らした。今まで大事に使っていた鉄鍋やアルミの弁当箱など鉄の物は供出と云って、ほとんどの家で拠出した。それに母は髪結いだったから、仕事で使っていたメノウ、サンゴの素晴らしいかんざし、足が金でめったに私等に触らせてもくれなかった物なども。

福山の娘さんがお嫁さんに決まって、日本髪を結うの頼まれたので、母が日本髪を結いに行ったのを見たことが何べんかある。最後は戦中で朝比奈のおばさんだった。


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