昭和20年3月10日-東京大空襲
戦時下の致命的な東京大空襲
昭和20年3月10日には、致命的な東京大空襲があった。東京市の都市部には、ナパーム弾(焼夷弾)による大規模な無差別爆撃だった。
爆撃被災者は約310万人、死者は11万5千人以上と言われている。それは、8月15日の終戦までに、東京市は、106回の空襲を受けている。
(cc) 昭和20年3月10日以降の東京市都市部
そして、この後、3月26日から、あまりにも悲惨な沖縄戦と共に、本土の空襲が続けられた。沖縄での日本軍・連合国軍および民間人を合わせた地上戦中の戦没者は20万人(兵士は沖縄及び県外)とされる。その数字は、沖縄県民の概ね4人に1人が亡くなったことになる。
勝つはずも無い戦争は続けられ(コンコルドの誤謬)
この東京大空襲の時点で勝つはずも無い戦争は、尚も続けられた。(Concorde fallacy)
メディアとは何なのか・・・
(註)(cc) 東京大空襲の翌朝の新聞から(読売報知新聞、朝日新聞)
特別攻撃任務に徹する人間魚雷の沿岸基地-Ariake bay
Fig.(cc) 日本の主要な島々にある基地の回天(特別攻撃任務に徹する人間魚雷)
そして、基地の場所を見ると・・。この地図にある、これらの基地は、第二次世界大戦の終わりに連合軍による本土への差し迫った侵略に対抗するために作成されたものだ。米国の公文書のこれからも、8月15日以降も戦火を交える様相が伺えることの予測がされる。
この地図には、東京湾のAriake bay(有明)がある、そこには、planned coastal bases(計画された沿岸基地)と読み取れる。
終戦
そして、広島、長崎に、原爆が投下とされて、8月15日に、終戦となった。
その時点の御前会議でも、2:2と意見が分かれ、それに、陛下の視点が加わり終戦に至ったと言われる。
国民は、だれも、戦争を望んだはずもない。
そして、日本が宣戦布告の前には、そこへ、至る大きな事情があったのだが・・・
何とも無残で大きな犠牲だ。
いずれにしても、戦死者の経緯があって、今がある。
とにかく、そういう、あまりに理不尽な戦争という時代があって、今がある。その経緯と犠牲をを忘れてはならないことは確かだろう。
民主主義、それは、修正が効く、平和を大切にしたい。
人は、生まれる時代や場所は選べないからだ。
(cc) 東京市(当時)の空襲被害状況をまとめた地図(戦災概況図)