「どう在りたいか」を自分に問う
「望む未来を思い描け」とよく言われる。
その思いが現実の未来を創造していくのだから、と。
でも、私はそれがずっとできずにいた。
自分の向かいたい未来がぼんやりと曇っていて見えない。視界が悪くて、長い間モヤモヤとしてきた。
それは特に仕事(働くこと)について、そうだった。(生活にまつわることは、結構想像ができるのだけど。)
私は、自分のやりたいことも分からなくなるくらいに、この社会構造に浸って、麻痺してしまったのかなぁと落ち込んだりした。
本職の傍ら、ヨガレッスンをするようになったけれど、本職の方が多忙になると、レッスンはなかなか開催できないし、
体調に支障が出ると、途端にヨガはできなくなってしまう。
有り難いことに、ヨガレッスンをして欲しいという依頼は結構いただくようになり、でも今の状況では定期的なレッスンを増やしていくことは、物理的にも体力的にも無理だと感じる。
そんな動けない状況の中で、また思考ばかりが働き始めて、一体どんな仕事をしている未来を思い描けばよいのか、さっぱり分からなくなり、モヤモヤのループにはまる。
モヤモヤが続いたある日、ふと気付く。
もしも、私の思いが現実(そして未来)を創造するのだとしたら…
このネガティブなモヤモヤ感(できないという罪悪感、自己卑下、分からないという苦しさ…etc.)こそが、今の私の現実を形づくっているんじゃないか、と。
そして、未来の私の現実をも創造していくんじゃないか、と。
それは困る!ということで、
とにかく今出てくる「モヤモヤ感」の一つ一つを統合ワーク等で毎日手放し続けた。
少しずつモヤモヤが薄れていく中で、
降参するような気持ちで、今「やるべき」と思うことではなく、純粋に「やりたい」と思うことをダラダラとやった。
読みたい本を読んで、見たい映画を見て、行きたい場所に行って、昼の間中、昼寝をしてみたり。。(まだまだやり続けてもいいかもしれないと思う。)
そうしていくうちに、何となく頭の中が少しクリアになってきて、直感のようなものも感じて、少しずつ曇りが晴れていくような感覚が今やってきている。
具体的な未来を思い描こうとするから、難しかった。
例えば、こんな職業で、このくらい稼いで…と想像してみても、その思い描いた職業で、未来の私が幸せかどうかは、現実になってみないと分からない。(←当たり前だ。)
だから、具体的な未来はそう簡単には思い描けない。
具体的なことではなくて、今明確に思い描くべきなのは、自分は働くことを通して「どんな在り方をしたいか」ということだった。
私は、目醒め続けながら、自由に(支配されずに、自分の身体や心をちゃんと大事にできるだけの自由の中で)、自然や直感的な感覚とつながって(自然と断絶せず)、喜びと心地よさと共に在りたい、ということが明確に分かった。
まずは、それを思い描いて、そうなった時の感覚を感じてみたらいいのだと思う。
「どう在りたいか」が先にあって、その次に「どんな仕事がしたいか」がくる。
究極的には、どんな仕事をするとしても、その在り方で存在できていれば、それでいい。
私がどんな仕事がしたいかは、ざっくりと言えば(当たり前のことなのだけれど、)自分がやっていることを信じられる仕事がしたい、ということ。
人や社会のシステム・地球や動植物が、より自然で幸福な状態、つまり私がこうあってほしいと思う状態に向かうために自分の力を使いたいと願う。
その手段のひとつがヨガを伝えることではあるけれど、それはヨガでなくても全然いい。
だから、どうしてもヨガの講師をやりたい、というのとは勿論違う。
その辺りのことが、はっきりとしてきたら、
ヨガ(や瞑想)のレッスンも「やらなければならない」ではなく、私の自由を大切にする中で、もっといい意味で力を抜いて、「楽に(気負わずに)やればいい」と思えた。
まずは「在りたい自分」を優先すればいいのだと分かっていたら、そこはかとなく出てくる迷いは消えていく。
今すぐには到達できなくても、焦らずに徐々に「在りたい自分100%」で日々を過ごせるように動いていけばいいと、冷静に思えてくる。
今日、かつての上司(今は定年退職されている方)にお会いする機会があった。退職されてから、作品づくりに取り組まれて、今は作家さんとして活動されていた。
「若い時、散々ごちゃごちゃ言っていたけれど、さっさとやりたいことやらないとね。」というようなことをおっしゃっていた。
あぁ、私、今、ごちゃごちゃ言ってるな~…笑、と思った。
大丈夫。焦らず、目の前の一つ一つを丁寧に前向きにいこうと思う。