神の手はどこに。
【神の手ならぬ】
稲城教室にて。休憩中に図書館のカフェで、強い風に揺れる森を見ていました。それぞれにおしゃべりをしているように、愉快そうにしていました。
その森の下にある会場で、生徒さんたちがガラス越しに談笑を楽しんでいました。
おおらかに揺れる木々達と、ささやかな人間たちの営みのコントラスト。大きなものに包まれているような気がして、ぼんやりと見つめていました。身体の芯にある、どうしようもなく疲れていた心が、ゆっくりと溶けていくようでした。
生徒さんに質問を受け、手直しでキャンバスに描き加えることがあります。ガラッと変わると「神の手が入った!」と言われます(笑)。
果たしてこれは「神の手」なんでしょうか。ある生徒さんが、雲を描いていました。丁寧に丁寧に、天国のお友達ワンコのために描いた絵です。それに手を加えるのですから、十二分に、その子のことや、描き手のこと、ご家族の想いに繋がっていきます。それはどこまでも純粋で透明なエネルギーです。
ちょうど僕は、展覧会に向けての作品を描いていました。そして同じく雲を描いていました。30倍の大きさの違いがあれども、自分自身の絵は荒れているのがよくわかりました。
そこには、混沌とした苦しみや焦りや葛藤、いろんな感情が込められた雲でした。当然ながら、納得いくわけがありません。
果たして、神はどこにいるのか。
僕が先生として加筆するのは「神様に奉納するようなもの」なのです。まさに、生徒さんや、子供達や、さまざまな想いを込めてひたむきに絵を描く、その姿勢と作品こそが神様なのでしょう。いつも教わるのは僕自身の方です。
亡くした子を初めて描く時の決意。試行錯誤して夢中に描く姿。演出を重ねて、より豊かな表現を目指す探究心。純粋なる想いに触れるたびに、「ああ、こうやって絵を描くのだった」と神様から教わるのでした。