神童の末路、不合格人生。
自身の半生をふりかえると、面白いくらいに受験で失敗してきたなと思いました。
恥ずかしながら、神童と言われてた小学生時代、まず小学6年生は、親の私立受験熱狂により、家庭が崩壊しかけて中学受験失敗。
次に高校受験は、さらなる家庭不和と威圧的な教師のために志望校を4つも落としてなんとか入学。
美大受験に至っては、東京芸大、多摩美、武蔵美、造形大、すべて不合格。これは高校生の時に受賞したことからのプレッシャーですね。
地元で浪人して(と言っても予備校に通えず)、奇跡的に九州の国立大に入れました。その大学も卒業までに7年かかり、そのあとの就職も8ヶ月でクビ。バイトも長く続かず、あの「図書館」ですら、3ヶ月でクビになりました。
社会的な分岐点で、ほとんど全てといっていいほどつまずいてきました。もうあえて玉砕していくように思えるくらいです笑。
他人や環境に影響されて、集中できずに失敗してきました。言い訳ではなく、私の資質として、他に影響されやすいのです。これは当たり前の失敗です。今思えば。プレッシャーに弱い。自分がない。
そんな私でも、人生でずっと続けていることがありました。どんなに失敗して社会からはじかれても、続けてきたこと。
それは、「絵を描くこと」です。
絵を描くことは、やりきれない自分の心を表現することであり、救いでした。目も覆いたくなるような現実を見ても、叫びながら絵を描いてきました。
家庭が崩壊しても、絵を描いてました。美大に全て落ちても、絵を描いてました。大学で周りの恋愛ブームにも乗り切れず、絵を描いてました。会社をクビになって、明日の生活に困ったときに、井の頭公園でゴザを引いて絵を描いてました。
大好きな祖母が亡くなった時も、大切な人が去った時も、震災が起きた時も、母が亡くなった時も、父が亡くなった時も、ご時世で世界が止まった時も、絵を描き続けてきました。それしかできないからです。
幸せな時もありました。結婚して家族も増えました。しかしそこで絵を描いていた記憶はあまりありません。浮かれていたのでしょう(笑)。しかし辛く悲しい時にはいつも絵を描いてました。
子育てによる大きな葛藤の渦の中でも、絵を描いていました。坐禅と修行で、平常心を得たときも、やはり絵を描いてきました。いつのまにか絵を教えることも生活になっていました。
自分自身の悲しさが癒えた後は、周りの悲しさに溢れた人のために描きました。相手の感じる辛さ、悲しさ、罪悪感、そのような感情は、自分の中にもしっかりとありました。そして、共に美しい光を作り上げて、描いていきました。
社会の枝分かれする分岐点では、全てに失敗してきましたが、私自身の歩む道には、誰にも影響されず、何も迷うことはありません。
結局、ただのシンプルな一本道です。ここを、1人で歩んでいくだけです。
過去も未来も、ずっと絵を描いていくのはわかっているのですから。
絵を描く意味。
それはわかりません。祈り、とは伝えてますが、本当はわからないのです。ただ、深く信じている何かがあることだけは、間違いありません。