菅田は”菅田将暉”がわからない。
どもども、こんにちは。
今日も読んでくれてありがとうございます。
今は森の中で焚き火を炊きながら、この文章を書いています。
すいません。今のはちょっと嘘です。(笑)
実際は、youtubeで焚き火の音を聴きながらこの文章を書いています。
意識は完全に夜の森の中。鈴虫が泣いている音がとても心地よく聞こえています。
疲れたときや癒やしにどうぞ。
菅田は”菅田将暉”がわからない。
今日、友達がリツイートしてくれたtwitterに印象的な記事が載ってありました。
とても感銘を受けました、っていう言葉で終わらせたくないので、ここに記そうと思います。
この文章は要するに、自分自信の存在や承認欲求について書かれたものです。
自分の中にある、自分への固執。それを手放してくための、家入さん流の考え方です。
中には、胸が詰まるような言葉も書いてあります。
ナンバーワンよりオンリーワン、もいいけど笑、自分なんてただのワンオブゼムであることを知る。自分なんて所詮、替えのきく大勢の中の一人。自分なんて存在しなくても、明日も世界は回り続ける。僕はよく、自分のいない世界を妄想するけど、その世界は今の世界と、全く何も変わらない。
哀しいな。でも、これも事実の一つであると思います。じゃあ、自分という存在をこの世界に見つけられないのかというと、そうでもないらしいです。
自分のことは自分が一番知っているなんてのも、本当の自分なんてものがどこかにあるだなんてのも、全くの嘘っぱちで、他者の中にある自分を見つけていくことで、自分の輪郭に触れることくらいしか僕らには出来ない。結局のところ、誰も、自分ですらも、本当の自分なんてわからない。他者の中にある自分を見つけることが、自分を知ることであり、他者を知るということなんだろう。
なるほどなあ、他者の中に自分を見つける、かあ。
つまり、自分で自分を認識しようと頑張るのではなくて、他者に目に写った自分を捉えていくことが、アイデンティティの形成につながっていくということですね。
本当にそんなもんなのかなあ。でもすげえ人は、ちゃんと自分の中に確固たる自分がいるんじゃないのかなあ。なんて僕は思ってしまいます。
そんなときに今日も聴いていたのが、ラジオでした。
菅田将暉さんの、オールナイトニッポンです。
今回は米津玄師さんがゲストに来ており、次のようなやりとりがありました。
* * * * *
米津「いやあ、今回の”まちがいさがし”は制作にめちゃくちゃ悩んだ。」
菅田「そんなに悩んでくれてありがとう。どうして悩んだの?」
米津「どれだけいい歌が作れても菅田将暉の歌にならないと意味ないの。」
菅田「なるほど。」
米津「でも結果とてもよかった。”まちがいさがし”は菅田将暉にしか歌えない。僕には歌えないものになった。」
菅田「いやいやいや...ちょっとまって、菅田将暉ってなんなん!?」
* * * * *
おそらく菅田将暉さんはこの時、自分の存在が自分で思うよりも、米津玄師の中で大きなモノになりすぎていると感じたのでしょう。
自分で認識する自分よりも、他者から認識される自分の方がどうしても強くなってしまうのです。
自分が何者なのかがわからなくなる。そんなことを、アカデミー賞のスピーチでも言ってたっけ。
こうして、自分の存在を他者の中に見出していき、初めて自分を認知する。家入さんの言う、自分は自分では決められないとはこういうことなのかもしれません。
どんなにすごい人でも、自分と他者の間にある自分という存在の差に悩んでいるようですね。
当然僕もそうです。あなたはどうだろう。でも、もしかしたら僕たちはもう少し肩肘を張らなくてもいいのかもしれない。
自分の自然体を信じてみても、いいのかもしれない。
結局誰かが、自分を決めるならね。
少しは流されて、生きてみようか。
さくらくん