「エレファントカシマシ とスピッツの研究」 (第七回)
そこらの芝生に寝ころんで『エレファントカシマシⅡ』
鮮烈のデビューアルバムからわずか8ヶ月後の11月21日、ロックバンドエレファントカシマシ はセカンドアルバム『エレファントカシマシ Ⅱ』をリリースした。
ある意味では、本作からがエレファントカシマシ の実相を伝える作品群であると私は見ている。デビューアルバムは、ロックバンドエレファントカシマシ としての高らかな宣言であり、現状を顧みない理念、理想に燃える青年の叫びであった。
しかし、その歌おうとしている理念、理想なるものは何なのか、それは、己で示さなければならない。この時、エレファントカシマシ のみならず、詩人としての覚醒を高邁にうたった詩人ゲオルゲも然り、あらゆる芸術家も、私のような一凡人の人生においても、自分は何を歌いたいのか、何を目指しているのか、何に辿り着きたいのか、「何も見出せていない」という現状にぶち当たるのである。
そうした悶々とした暗鬱の心境に身を置いて作られたアルバムである。
以下、私の私的解釈で作品について述べようと思っているが、これはあくまでも私の一解釈の域を出ない。とても真を捉える事の難しいアルバムである。
だが、ボーカルの宮本氏は確かに「高き圏」を目指しており、そこに自分も参じてみたいと思わせる魅力を感じさせる。
一曲一曲が非常に重いこのアルバム中、特に一曲目「優しい川」と最後十曲目「待つ男」はこの時のエレファントカシマシ が表現し得るバンド芸術の極北といえるのではないだろうか。
「優しい川」という曲は、何を歌っている曲なのか、何が言いたい曲なのか、未だに私はどう解釈して聴いたらよいのか分からない。
故に、自分なりの解釈を交えて聴くことになるが、少し前までの私の解釈は二番の歌詞を聴くと、どうも「権力者と被支配者」が優しい川の流れる岸辺でそれぞれ胸の痛みを抱えて生きているということを歌にしたのか、とも思ったが、それならば、ファーストアルバムのようにもっとストレートにスカッと歌い飛ばす事はエレカシにはできただろうと思う。最近は解釈が変わった。
「権力者」ではなく「一人ご満悦に生きている自分」を歌にしたのではないか。川はいつまでも優しく流れている。
優しい川の流れる岸辺には
光をあびて輝く姿あり
ひらきなおる態度もあからさま
まばたきの他には動かず
諸人 生きる場所さえ せばまって
裸足で固い地面を ふみならす
とどのつまりは すみに追いやられ
わけもわからず ただ泣き寝入り
Ah 清らなる川よ
Ah 清らなる川よ
震える姿よ
優しい川の流れる岸辺には
光をあびて輝く姿あり
もくずと消えた日々など
俺の目にゃまるで止まらず
Ah 諸人よ
Ah 清らなる川よ
強がるうしろから ちらりのぞいたら
ナミダの顔が見える ナミダの顔が
(『優しい川』:エレファントカシマシ アルバム『エレファントカシマシ Ⅱ』収録)
この曲に関しては、歌詞の抄録から曲の本意を掴むことは、私の乏しい力ではとても無理なので、とりあえず最初から最後まで詞を観ていく必要があると思い、掲載させてもらった。
「優しい川の流れる岸辺に光を浴びて輝いている姿」
これは、自ら生み出した精神で女神を降臨させて戯れた詩集『讃歌』の時のゲオルゲが、私には重なって見える(第三回参照)。
一人、詩神と愛撫を交わしたゲオルゲだが、
「生きる場所さえせばまった諸人が裸足で固い地面を踏み鳴らしている」
宮本氏が求めるのは、優しい川ではなく、
Ah 清らなる川よ
そして、本来あるべき姿とは、
震える姿よ
と、歌い上げる。
一人ご満悦に生きている自分は、すみに追いやられわけもわからず泣き寝入りする諸人に対して、何も動かずまばたきだけしている。
優しい川の流れる岸辺で。
日々はもくずのように消え去っていくが、優しい川で女神の恩恵を受け、光を浴びてじっとしている。
しかし、最後の一節で、一人ご満悦のはずだった姿をチラリのぞいて見ると、
ナミダの顔が見える、ナミダの顔が。
私的な解釈だが、ここで宮本浩次氏は一人で「俺はファイティングマンだ!」と息巻いていながら、その間もすみに追いやられ泣き寝入りを余儀なくされる諸人が優しい川の岸辺に同じ様にいるにもかかわらず、まばたきの他は動かず、もくずときえた日々も目に止まっていない。自分自身に対するむなしさ故のナミダの顔となる。
このように解釈すると、詩人ゲオルゲが『讃歌』から『巡礼行』へと向かった道筋も同様の心境にあるのではないかと思えてくる。
この時期のゲオルゲの心境を手塚先生は、「やわらかい苔のしとねで眠りを欲する」という表現から読み取られている(第五回参照)。
エレファントカシマシ はこのように歌う。
頭かかえて そこらの芝生に寝ころんで
空 見上げて 何もかもが同じ
(『おはよう こんにちは』:エレファントカシマシ アルバム 『エレファントカシマシ Ⅱ』収録)
この時期のインタビューにも心境が表れている。
ー一曲一曲の出来としてはどうですか。
「ちょっとチャラチャラしてるかな」
ーチャラチャラしてますか? これ。
「⋯⋯浅はかさが、私の、出てるんじゃないでしょうか」
ー浅はかですか?
「軽薄というか」
ー具体的にどういうところが?
(中略)
「なんかねぇ、深読みできそうないい加減なこと書いてあるしさあ、俺の詞が」
ーさっきから浅はかとかいい加減とか言ってますけど、何を基準にしてそう感じるんですか。
「だから一字一句こう⋯⋯ちゃんとしてない」
ーそうかなぁ。もしかして、宮本さんは例えば言葉ひとつひとつが完全にオリジナルでしかも何十年経とうが微動だにしないような、そういうとんでもないレベルを想定して音楽やってるんですか。
「それは当然です。その通りです」
ーそりゃ当然と言えば当然だけど⋯⋯ねぇ。
「例えば”学業を成す!”っていう人だったら日夜そのことで頭をいっぱいにして何十年もかかってひとつのことを成し遂げるじゃないですか。そういうもんじゃないんですかねぇ。それを、何かポッと出てさぁ」
(『風に吹かれてーエレファントカシマシ の軌跡』2010年1月18日三版第三刷発行 渋谷陽一 株式会社ロッキング・オン P49〜51)
とにかく、何か大きな仕事を成し遂げたいのがよく伝わる。リスナーや周囲の人を巻き込んだ一級品の芸術を生み出したいのであるが、本人が真に伝えたいことがちゃんと表現しきれていないもどかしさのようなものを感じる。
「太陽ギラギラ」「自宅にて」などからは次作『浮世の夢』の世界観の片鱗が観られるが、心境的にはそこまでは至り切っていない、過渡期のような精神が表れている。
この時点でのエレファントカシマシ を表現しきったと私的に思えるのは、前述した「優しい川」と最後の「待つ男」である。
次作へのエレカシの態度を予感させる曲でもあり、一曲としても非常に独立した日本のロックとなっている。
エイトビートというよりも、拍子をとりながら浮世絵を背景にして歌舞伎役者が六方を踏んで花道を去っていくかのような渾身の力み様、独特である。
どうやって「これを演ろう!」とメンバー間で共有し合ったのだろうか、と不思議に思ってしまう曲であるが、これはその序章であった。
この心境はゲオルゲの詩集『巡礼行』においても非常によく似た兆候を表しているように手塚先生は指摘している。
長くなりそうなので、次の機会にもう少しその辺りを観てみたく、次作『浮世の夢』へと続けて行きたい。
つづく