当麻寺練り供養と当麻寺の謎 [弘文陵と新羅明神]
🔶 当麻寺練り供養と当麻寺の謎
当麻寺 (當麻寺) の4月14日の「練り供養」、
本堂 (国宝) から出てきて、(中将姫を)「お迎え」に来た菩薩が
向かいの「娑婆堂」に入り
3分ほどして、また出てきて本堂へと引き返して行きました。
これは中将姫の極楽浄土 (本堂) への旅立ちを表わしています。
[📷 當麻寺娑婆堂へ合掌の手を高く左右に振りながら入る菩薩]
[📷 當麻寺練り供養 本堂へ向かう菩薩などの列。画面右奥が娑婆堂]
[📷 本堂に入る菩薩たち]
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極楽浄土を描いた奈良時代の「当麻曼荼羅」(国宝) を本尊とする
「本堂」(平安時代とされる [奈良時代の部材も発見] )
は東を向いてますが、
[📷 當麻寺本堂 (曼荼羅堂) 正面 (東面) 練り供養の日]
それとは別に、本堂から見て東側に
白鳳時代の「弥勒如来」(国宝) を本尊とする、南を向いた「金堂」と
[📷 當麻寺金堂 正面 (南面)]
その北に同じく南面する「講堂」が有ります。
( 奈良の寺院などでよくあるのは、この
金堂・講堂が南北に並んだ形です。)
つまり、ふたつの伽藍の中心線が十字にクロスした、
珍しい形式の寺院となっています。
この配置を私は、
「寺創建の白鳳時代の配置=金堂・講堂などの南北ライン」の後に
「奈良時代以降の配置=本堂・娑婆堂・仁王門の東西ライン」が
( 浄土信仰が盛んになったことに合わせて )造られ、
次第に後者の信仰がメインになり
東西ラインへと比重が移行したものと考えていました。
しかし、どうも違うそうです。
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元来の形と考えられた南北ラインに (この当麻寺では) 正門 (南大門) が無いのですが、
かつては門が南に有ったのかというと
意外にも、その跡すらも見当たらないとのことで、
[📷 當麻寺金堂前から南を見る。奥は後世の塔頭。画面左の石標の土台は建築物の礎石のようですが、これは門の跡とは違うのでしょうか。それでも形式的な門に過ぎないでしょうが。]
たしかに南方に山が迫っていて、
参道の存在がやはり当初から想定される地形で無かったと考えられます。
謎めいた立地条件と感じざるを得ません。
かたや、いまの正門とされる東大門 (仁王門) から先は
真っ直ぐ東に「藤原京」が位置するそうで、
そうなると、ピンと来る「コード」が出てきますね。
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やはり「実力」を誇った「藤原氏」の存在でしょう。
当時からその名がある「藤原宮」の成立時期が
( 「藤原宮」の名の由来は、そこの地名と言われていますが )
藤原の二代目不比等の台頭期と重なっているのは偶然とは思えません。
さらに、
時期的に天武天皇による「天皇親政」の形から
官僚的な「律令政治」、内実は「藤原氏」の実権掌握への変遷を
当麻寺の形も表している感じがします。
南向きの金堂の本尊の国宝弥勒如来は、頭と体幹部が直接つながり、首筋が殆ど無い、
ずんぐりした丸顔の
「ブロック式」と呼ばれる「新羅風」の様式で、
「新羅」というと、(藤原宮成立時の持統天皇の先代 [、夫] の) 天武天皇が
( 「親百済派」とされる ※1 兄の天智天皇とは対比的に )
「親新羅派」と言われることが想起されます。※2
その「新羅」風の (白鳳時代の)「本尊」が南面する先は山がそそり立ち、
一方「藤原宮」に東面した本堂は、奈良時代以降「当麻曼荼羅」への信仰を集め、
『その「当麻曼荼羅」は藤原氏出身の中将姫ゆかりのものである』
との伝説も絡んで
当麻寺のメインラインとなっています。
それらの二本のラインが初めから造られていたとなると、
その対比自体も意図的に構成されたものであり
「メッセージ」を含んでいるという印象が強くなります。
🔍 當麻寺 中之坊と伽藍堂塔 公式ページ http://www.taimadera.org/
🔍 GoogleMapStreetView (當麻寺境内。奥に東向きの本堂 [国宝]、手前に南向きの金堂 [左]と講堂 [右]。振り向くと娑婆堂が見えるポジション)
📔 ブログ内「當麻寺」関連記事 (一部)
〔随時更新〕
※1. 即位2年目の663年、日本・百済遺民連合軍と唐・新羅連合軍との戦争「白村江の戦い」が行われた。
※2. (関連記事)
🔶 弘文陵と新羅明神
「親百済派」の天智天皇の皇子である大友皇子 (弘文天皇。明治期の追謚) とゆかりが深いという
滋賀の三井寺 (園城寺) の「北院」に
国宝の「新羅善神堂」(現在の建築は室町前期。足利尊氏の寄進) がある。
三井寺中心部からの案内板などは全く見当たらない。
北への幹線道路を行くと弘文天皇陵への石標があり、そこから左へ入り、
しばらくして左手に見える森が「新羅善神堂」の境域であり、
(📷 新羅善神堂の森を北方向から望む。画面左の奥への道が弘文天皇陵と新羅善神堂鳥居へと続く。)
森に近づくと見えてくる細い道をそのまま (南へ) 進むと
左に、北面した「弘文天皇陵」(明治時代に陵墓指定) の、よく整備された幾分明るい空間がある。
この空間から「新羅善神堂」の森を見ると、まるで白と黒の対比である。
📷 弘文天皇陵前から見た新羅善神堂の森
📷 弘文天皇陵
📷 新羅善神堂鳥居
「新羅」の名からは、
672年の壬申の乱で大友皇子 ( 弘文天皇 ) を倒して即位した「親新羅派」の天武天皇を連想せざるを得ない。
( いわゆる「天武系」の皇位継承のラインは女帝の称徳天皇で止まり、
「天智系」へと奈良時代末の光仁天皇以後戻っている。
「天武天皇」はそういう存在でもあるのだが。
その観点に立てば、なおさら
[「新羅善神堂」は天武朝より後の平安創建と見られる事も含めて ]
この堂の「新羅明神」が「天武天皇」に見立てた存在であり
「新羅善神堂」が「天武天皇の鎮魂施設」との解釈も有り得るだろう。 )
細い道に戻ると、南への突き当たりの右手に「新羅善神堂」の大きな石鳥居が立つ。
この鳥居も何回かくぐっているが、森の中は常にほぼ荒れたままの印象を受ける。
向こうに見える石垣も含め、まるで城跡のようである。
📷 新羅善神堂参道
📷 新羅善神堂 (国宝)
📷 新羅善神堂東側面
「新羅善神堂」の本尊、新羅明神坐像 (国宝 平安期) は
平安時代の三井寺中興の祖・智証大師円珍が信仰したとされ、
( 展覧会に出たことはあるものの ) 写真すらも殆ど公開が許可されていない (※1)。
威嚇的と取れるほどの異様に神秘的な風貌が際立つ。
「新羅善神堂」自体は南面しているが、鳥居は東向きであり
あたかも隣の「弘文天皇陵」を見つめているかのようでもあり、
また見ようによっては、「新羅善神堂」の鳥居の前を「弘文天皇陵」の境域が塞いでいる格好でもある。
実はこの鳥居の南隣にも、「新羅善神堂」への鳥居内の参道と並行するかのごとく西へ折れる細い道(の跡) があり、
地図によっては道が載っているが、以前行った時は倒木などで塞がっていた。
これは、「新羅善神堂」の前で元服式を行なったという平安末期の武将、新羅三郎こと源 義光の (鳥居がある大きな) 墓への道とつながっていて
新羅善神堂の鳥居の横道は元来、「新羅三郎墓」への参道だろうと思う。
この中世の参道は、あたかも「弘文天皇陵」と「新羅善神堂」の間に入り
(空間的には両者は密接しているので「間」は設定しづらいが) 、
仲立ちを行なっているのでは、と想像した。
📷 新羅三郎墓
※1.
私が入手した写真の出版物は「国宝 三井寺展」(2008年) の目録のみ。
この目録は同展で公開された、
普段は写真も含めた公開が同様に厳重に制限された「黄不動画像」(国宝) や、
同じく定期的な公開予定がない「智証大師坐像 (御骨大師)」(国宝)、
年に一度法要が行われるのみの「智証大師坐像 (中尊大師)」(国宝) の写真も掲載してある、コンテンツ的に極めてレアな書籍。
「新羅明神」「黄不動」は印刷の写真では他に全く見たことが無い。
「黄不動画像」を奈良国立博物館での「日本仏教美術名宝展」(1995年) で公開した時も、目録に写真が載りませんでした。
私は同展で初めて実見したものの画像が薄くて殆ど見て取れず、
「国宝 三井寺展」目録でクリアな線描を見た時、三井寺の画像を手本にしたという曼殊院黄不動画像 (国宝) かと勘違いしました。
「中尊大師」の年一回 (10月29日) の法要の時は、ネットで「開扉」と出ていたのですが、
行ってみると、係のおじさんは「 (拝観は) 信者だけなんですよ」と述べ、横のおばさんに聞くと通してくれた。やや遠くから拝む形。私以外に一般の拝観者が見当たらず、来る人が珍しいそうで、新聞記者の取材を受けることにさえなりました。
[ 📷 中尊大師をまつる唐院大師堂 (19年10月29日) ]
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📖 本ブログ内関連記事 (三井寺北院の法明院にあるフェノロサ墓所について)
📖 本ブログ内 三井寺関連記事 (一部)
📖 本ブログ内 弥勒関連記事
(20年4月29日, 12月, 21年1月4月22年10月更新)