1月9日 大友皇子が天皇に即位(弘文天皇。 大友皇子即位説より) 672年(天智天皇10年12月5日)・ 「天智天皇暗殺説」への疑問点
1月9日 大友皇子が天皇に即位(弘文天皇。 大友皇子即位説より) 672年(天智天皇10年12月5日)。
以前、弘文天皇陵と三井寺新羅善神堂について書きましたが
( https://note.com/artandmovie/n/nba48babd85ab?creator_urlname=chiichan )
近辺の、大友皇子 (弘文天皇) と父親の天智天皇に関連する史跡を
この数年幾つか巡りました。
天智天皇陵、近江京跡、近江神宮、三井寺、崇福寺跡・梵釈寺跡
皆写真も撮ってますが、一眼レフの画像がここに入力が成らず、(以前述べましたが) のせる手立てを探っています。
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これらの史跡の内、天智天皇陵は山を挟んで西の
山科という地域にあります。
長い参道の先の拝所脇にある平らな巨石を多くのネット・マスコミでは「沓石」と呼んでいます。
「沓石」の名は、次の伝承に基づいていると考えられます。
天智天皇が山科で亡くなった時に沓(くつ)が落ちたところを陵地に定めた (「帝王編年記」「水鏡」)
天智天皇が山科に狩りに出て行方がわからなくなり、沓が落ちていたところに山陵を築いたという伝承 (「扶桑記 (扶桑略記)」)
ただ、「正史」の「日本書紀」では天智天皇は病没とされているので、
陵墓においては、「扶桑略記」の行方不明説から「沓石」の名を採ってる訳ではないのでしょうが、
他の言い伝えも、亡くなった時に沓が落ちていたという点で大差無く、
「沓」のトピックは、「正史」での「病没」との整合性が薄いと感じるのですが。
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「沓」の伝承と関係して、しばしば語られるのが
天智天皇陵から8キロほど南に有った、周囲約16キロある巨椋池 (おぐらいけ) の東岸に
天智天皇が埋葬されていたという説であります。
傍証となるのが、
「万葉集」に収録されている、天智天皇の皇后・倭姫王による、夫を偲ぶ歌です。
青旗の木幡の上を通うとは 目には見れども 直(ただ)に会わぬかも (巻2-148)
原文 青旗乃木旗能上乎賀欲布跡羽目尓者雖視直尓不相香裳
(「青旗の」は、樹々の葉が青々と繁る様子を表す枕詞として、
実在の「木幡」「葛城山」「忍坂山」にかかるとされることから、
原文万葉仮名の「木旗」が「木幡」と読まれていると考えられます。)
「木幡」(こはた) が巨椋池の北東部にある地名「木幡」(こはた。今は、京都アニメーションがある場所として有名) のことであり、
だとすると、
「山科北部」で「天智天皇が亡くなり埋葬された」と言われている「正史」とは異なることを、
(山科北部からは8キロほども南にある)「木幡」を「(天智天皇の霊が) 通っている」という「歌意」が暗示している、
という解釈から始まり、
行方不明になった天智天皇は、実はいま天智天皇陵がある山科北部の辺りで
沓を残して暗殺されて、
遺体は山科川を8キロほど船で運ばれ、
その山科川が「木幡」から巨椋池に入り、船は池東岸沿いを4キロ南下して、
東岸の「天王」(てんのう) の地に葬られたという説であります。
明治時代までその地に「天智天皇」と刻まれた石碑と「天忍雲命」[※1] を祭神とする祠が有り、
今は400メートルほど北の、地蔵院の門をくぐって左手に「天智天皇」碑が移され、
「祠」は (地蔵院の西隣の) 巨椋神社の本殿右手前に
「八幡宮」(祭神 仁徳天皇 天忍雲命) として移転されています。
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私が一つ疑問に感じ続けていたのは、
「暗殺されたとする説」の場合、
その遺体を何故、深い山の中に隠すでもなく、
当時でも平坦で開けた地であったろう東岸に、わざわざ「埋葬」したのか、
という点です。
むしろ、「山科北部に沓が残った」「山科南部の巨椋池東岸に埋葬地がある」との伝承をつなぐ解釈を行うのなら、
「暗殺」と見るよりも「事故」と見る方が、より自然な解釈なのではと想います。
これらの議論は元来、当時の山科川が「舟の航行が可能な程の水量」であることが前提ですが、
「山科北部で沓を残して行方不明になり」、何らかの事故で山科川を流され、
遺体が巨椋池東岸で発見され、(そこで埋葬されたかどうか別として) その地に慰霊の施設が建った、というような解釈の方が、
伝承の解釈としては自然だと考えます。
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※1
「天忍雲命」(天押雲命) の神名は、
天智天皇の和風諡号「天命開別天皇 (あめみことひらかすわけのみこと) 」と似ていると感じます。
明治時代までの祠と石碑の跡地を調べて見ましたが、
近くを細い水路が流れて、
その北のラインは旧巨椋池の方 (西) に曲がってるので
(今の水路は、北東の山科川から巨椋池へ注ぎ込む流れと反対の
北西の方からきているように見えますが、逆に)
巨椋池があった頃は、この水路の特に北の部分が
巨椋池の東岸の線の名残で、つまり巨椋池に含まれていたのではと考えました。
だとすれば、跡地近くの細い水路も、今よりは「巨椋池」に近く、
北東から巨椋池へのラインと関係が強まるかもしれません。
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(参考)
📷 三井寺 (園城寺)
📷 三井寺金堂 (国宝)
📷 三井寺金堂前灯籠
📷 崇福寺金堂跡から塔跡を見る
📷 崇福寺塔跡
📷 崇福寺跡神事・法要
📷 梵釈寺跡
📷 梵釈寺跡がかつては崇福寺跡と考えられて石碑が残ってます
📷 霊窟と金仙滝
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[18.10.29. (三井寺), 19.5.17. (崇福寺跡, 梵釈寺跡, 金仙滝) 撮影]
(随時更新。21年5月更新)