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法隆寺三蔵会


📖 《なぜ三蔵会に注目したのか?》


🔶 三蔵会とは何?

5日、法隆寺の三経院で行われる「三蔵会」に行ってきました。

〔🔍 法隆寺公式ページ 
「年間行事」 http://www.horyuji.or.jp/gyouji/ 
「三経院」 http://www.horyuji.or.jp/garan/sangyoin/ 〕

「問答」の場面があり、その部分は演劇的に見えました。

法隆寺は1950年以来「聖徳宗」という宗派の総本山ですが、
それ以前は奈良の薬師寺、興福寺と並んで「法相宗」の大本山であり、
三蔵会は、法相宗の宗祖の一人とされる玄奘三蔵の命日に
遺徳を偲び、法相宗の哲学的な中心理念である「唯識」に関する問答が行われるとのこと。

また、「 (創建時は寺僧の住居であった) 僧房」の一つである「西室」の南端を改装した
国宝の「三経院」の内部が観られる一年に唯一度の機会でもあります。
( 南北に長いこの建物の北半分が今は「西室」と呼ばれ、南半分が「三経院」であり、どちらも国宝 [鎌倉時代の再建] に指定されています。

[ 📷 三経院]

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[ 📷 西室 ]

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「西室」の方では毎年「夏安居」〔げあんご〕という一般向けの講義が行われ、
私も何回か行ったことがありますが、開始時刻の朝10時以降は入れてもらえません。私も入れなかったことがありました !  でも、間に合わなかったことで、「入れない」ということを学び取れました ! )

🔶 行の始まり

侍姿の二人が法螺貝を吹いていると
三経院の南東の方から
僧侶たちが一列で歩いてきました。

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私は開始時間の朝10時までに、一般参列者はここまでは上がって良いらしき、南の回り縁で待っていたので
僧侶たちがどこから歩いて来られたのか、この日は見えませんでしたが、
正月の法隆寺の「吉祥悔過」の時は、本坊の門から一列で出て来られたのを見ています。

僧侶たちは三経院の西の戸口から入って、
三経院本尊の阿弥陀如来像の前に掛けられた「弥勒菩薩」の画像の前で向かい合って
読経を始めました。

この「弥勒菩薩」は玄奘三蔵に法相の教えを授けたと言われ、
法相宗の本来的な宗祖とする見方もあります。


🔶 初めて見た国宝・三経院の内部

正面からは須弥壇上の阿弥陀如来像は弥勒菩薩の画像の後ろで見えなくなっていて、
( 森鴎外が、他の寺〔興福寺の慈恩会〕についてですが、
この『いつもの本尊の仏像の前に、法会のための  [慈恩大師] 画像がかけられる状況』を、
皮肉というかユーモラスに詠んだ短歌
 本尊をかくす画像の尉遲基 [うっちき 慈恩大師の本名] は我れよりわかく死にける  男   [「奈良五十首」]
を想い出しました。)
阿弥陀像の左右脇侍の1メートルほどの二天王像が弥勒画像の両脇に立っているように見えます。

三経院の南面は、外側へはね上げる蔀戸〔しとみど〕が全て開けられ、
外縁からも内部が見渡せます。

内部の床は、須弥壇の手前は敷板ですが、周囲は畳が敷かれ、
東西の壁面に当たる箇所は、ほぼ全面日本家屋にある障子が貼られた戸になっており、外側の板戸が開けられているので外光が透過して来て内部が明るくなっています。

東西と北壁の、天井に近い区域は
一定の間隔毎に、目の細かい連子窓に似た意匠が作られています。
(外縁より内部へは、全く入れてもらえなかったので、南の内壁は見てませんが。)

天井は格子状の木枠を張った「格天井」〔ごうてんじょう〕の
「格子」の中に更に細かい格子が入った「小組格天井」〔こぐみごうてんじょう〕という、
中世の寺院建築の典型的なスタイルが伺えました。


私が上代建築のミニチュア風に細かい意匠を意識し始めたのは、
霊山寺本堂 (国宝) の内部の細やかさに感動してからですが、

(この三経院と法隆寺で東西の対を成す)
聖霊院 (しょうりょういん。こちらも元々は僧房。国宝) が、
(聖霊院の方は内部にもある程度入れるので)
改めて内部をそんな視点で見渡すと、同様の繊細な意匠に満ちていましたし、

今日覗き見た三経院にも共通の細かさが伺えました。


霊山寺も法隆寺のこの東西の房院も、鎌倉時代の建築であり、
この頃、庶民信仰の拡大により
寺堂の内部に一般信徒を上げることとなり、
堂内に区切りを作る必要が生じたらしく、

建築部材による殊更に細かな装飾性も、
そのこととの感覚的なバランスを取るためかもしれません。


室内のほぼ中央に位置する、須弥壇上の仏像の背後には障壁があり、
そのすこし奥の、北に「隣接」する西室との境は、白い壁と柱しか見えず、
北側から僧侶たちが出入りする戸口は、須弥壇の障壁の背後にあると思われます。


🔶 問答について

法相系の「唯識」に関する問答があるというので
事前に唯識論について、すこし調べて
「末那識」や「阿頼耶識」や「種子 (しゅうじ)」などといったタームだけでも聞き逃すまいと、覚えて来ていたのですが、
それらしき単語は耳に入って来ませんでした。

僧侶のかたが何度か述べていた「疑い」という単語が印象的で、

その単語からイメージされる筋道は、
「唯識論的」「哲学的」な『問答』というよりは、
「信じるか信じないか」「信じるのか疑うのか」レベルの
『信仰告白』と言うのでしょうか、
そういうことをここでやっているのでは、といった印象で
意外な感じがしました。

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興味を引いたのが、
冒頭「演劇的」と述べた点で、
これも『信仰(の程度の)告白』に関わってくるのかもしれませんが、
何らかの役柄を演じるがごとき僧侶の言動が時折見られたのが
とても興味深かったです。

先述の北の戸口の方から、左右に一人ずつ黒い衣を着た若い僧侶がこちらを向いて立ち、
順番が来ると本尊の前に来て、(侍が僧侶に命じられて「ハハッ」と応えて置いた)丸い敷物に坐り
二人で問答らしき口上を交互に述べるのですが、

時々そのなかに、
普通これらの宗教行事で僧侶が保ち続ける厳粛で折り目正しい佇まいとは
明らかに、意図的なことが伝わるくらいに、異なった仕草が見られます。

先ほどの立ってスタンバイしている若い僧侶は、上体を左右に揺らし、
こちらに歩み出て、また一旦止まっている間は、
今度はそこに坐っている侍の方を振り向き、クレームをつけているかのごとき表情で何か言っています。

( 連想ですが、往馬神社の火祭りでの狩衣姿の「道化」が色々と自由に振る舞い、
それに対して「侍」姿の人が脇差しに手をかけるなど怒ったリアクションをとって見せたりの「無言劇」が行われる様子を想い出しました。)

そして、そんなキャラクターの僧侶が着席して述べるのが
どうも先述した「(信仰への) 疑い」のスタンスのようなのです。

つまり、「落ち着かず気ままに振る舞う」者が、「(信仰への)疑いを抱く」者であって、
そんなスタンスのキャラクターを、或る種克服すべき存在として
演劇的、教訓的に示している風に見えたのでした。



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📖 ブログ内「三経院」関連記事 (21年1月)

📖 ブログ内 玄奘三蔵関連記事


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〔9日午後, 27日, 21年1月 [暫定的修正 「鎌倉時代に改装」→「改装」・「鎌倉時代の再建」を加], 4月22年2月更新〕

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