殺殺人事件事件
「そ、そんな…なんで…」
目の前にあるものが何なのか、彼にははじめ理解できなかった。
目の前にあるそれは、何者かによってトリックを伏線ごと貫かれていた。
そしてプロローグの辺りをガムテープでふさがれていたが、そこから漏れだすように地の文が零れ落ちている。
あとがきは無残に乱れ、周囲に投げ出されているのは粉々に砕かれたノックスの十戒。
この絶海の孤島、その屋敷の一室にて
殺人事件が殺害されていたのだ。
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その屋敷は、島の中でもひときわ高い丘の上に建っていた。
日本海を一望できるという館主のうたい文句も、こんな悪天候ではただむなしく響くだけ。
屋敷に泊まっていたゲストたちは、全員が窓のない談話室に集められていた。
「信じられないでしょうが、この屋敷の中で世にも恐ろしい事件が起こってしまいました」
重苦しい雰囲気を無理やり押し開くかのように、探偵は語り始めた。
「なんと言えばいいのか私にもわかりませんが…そう、殺人事件が殺害されていたのです」
「ああ、俺も見たよ」
賛同の声をあげたのは、ここに今回のゲストを招いた張本人であり、館主の息子でもある青年だった。
「言葉でこれ以上表現しようがないが、あれはたしかに”殺人事件が殺されていた”と言う他に無え。だよな?」
「え、ええ、その通りです。若旦那様」
急に言葉を掛けられて小動物のようにびくりとしたのは、この屋敷で使用人として働く少年である。
「最初にあれを発見したのは僕でしたが、その…あれは見紛うことなく殺人事件です…。あ、いえ、”殺人事件が起こっていた”というのではなく、”殺人事件が倒れていた”という意味で…」
殺人事件が殺害される。
そんな前代未聞の事件が混乱を招かない筈はなかった。
実際に現場を見た探偵、若旦那、使用人の三人も、未だに現状を理解できずにいる。
ともすれば、現場を見ていない者たちにとってはなおさら納得がいかないことだろう。
「ちょっと待って。さっきから聞いてれば、その”殺人事件が殺されてた”っていうのはいったい何の冗談なの?」
「そうよ、どうせ何かの例え話なんでしょ?もっと私たちにもわかりやすい話し方にしなさいよ!」
若旦那の婚約相手と、その双子の妹が揃って声をあげる。
「だから、そうとしか言いようがねえんだって」
二人同時に詰められた若旦那はややうんざりしたように唸るしかない。
「推理小説が捨ててあったとか、原稿が破いてあったとか、誰かが死んでたとかそんな話じゃねえんだ。マジで、文字通りに、殺人事件が死んでんだって」
それを聞いた者たちは半笑いになりながらも、彼らの深刻そうな顔に一抹の不安を覚えたのか殺人事件が殺されていたという隣の部屋へと恐る恐る足を踏み入れた。
だが、やはり事実は事実のままでそこにあった。
「ホントだったわね…」
「ええ…殺人事件ってあんな風な構造になってるのね…」
「伏線って本当に張ってあるんですね…」
その光景を見た皆が大体こんな反応だった。
一辺の疑いを挟む余地なく、殺人事件が死んでいた。
その光景を一度見てしまえば、誰もがそう理解せざるを得ないのだった。
ただ一人を除いて。
「いや、吾輩にはどうも納得ができぬようだ」
「きょ、教授?」
教授と呼ばれた壮年の男だけが、事実を受け入れられずにいる。
「吾輩が今日のためにどれほど周到な準備を重ねてきたか、君たちにはわかるかね?なぜこんな突拍子もない出来事で吾輩の計画が狂わされなければならないのだ?このあたりの海がいつ荒れやすいか調べるのにどれだけ時間がかかったと思っている?無人島の屋敷とかいうミステリー小説以外ではありえない物件が建つよう仕組んだのは誰だと思っている?」
「ま、まさか貴方は…」
真相を究明するという使命を胸に
彼は力強く立ち上がった。
犯人が、いや、殺人事件を殺されたせいで犯人になれなかった男が。
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「ということは、本来は貴方が殺人事件を起こすはずだったのですね」
「いかにも。吾輩が仕掛けたトリックにより、この屋敷の館主は密室で無残にも息絶えるはずだったのだ。それなのに…」
探偵の追求に対しあっさりと白状した元犯人は、悔しそうに歯噛みする。
「しかしだね、探偵君」
だが、この男の目はまだ死んでいない。
「君が探偵という役割を果たすのも、吾輩が犯人という役目を負うのも、殺人事件という枠組みの中に過ぎない。違うかね?」
「何が言いたいのでしょうか?」
殺人事件という枷によってのみ、彼は犯人たり得る。
その逆もしかり。殺人事件でなければ、探偵役が探偵である必要はない。
「吾輩にはわかったのだよ。殺人事件を殺した犯人のことがね」
かつて犯人だった男は、殺人事件の殺された世界で探偵となった。
「皆もミステリー世界の住人だ。ノックスの十戒というルールについては当然知っているだろうな」
「あたりまえだろ?破っちゃいけないこの世界のルールだって小学校の頃から厳しく教わったさ」
若旦那が肩をすくめて答えた。
「ならば今一度皆に問おうではないか。殺人事件が殺害されていた現場には何が残されていたかね?」
「何って…、そ、そうよ!ノックスの十戒だわ!」
「その通りだ。皆も見たであろうな」
双子のどちらかが上げた声に対し、教授は深く頷いた。
「つまりこの世界は今、ノックスの十戒が破壊され存在していないと言える。従って、真犯人はノックスの十戒によって疑いから逃れることができた人物…」
教授は背後の扉を指さした。示し合わせたかのように扉から出てきたのは
「君こそが、殺人事件を殺害した犯人だ」
「な、なんですかいきなり!」
探偵の双子の弟がそこにいた。
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「現場を見れば明らかだが、ノックスの十戒は完璧にバラバラになっていた。ということは、真犯人にはノックスの十戒をそこまで破壊しなければいけない理由があったはずなのだ」
「では、ノックスの十戒の逆を突き詰めていけば、犯人につながる手掛かりが…」
探偵の双子の弟の挑戦的な視線を正面から受け止めつつ、教授は指を立てた。
「まず、”犯行現場に秘密の抜け穴が二つ以上あってはならない”、”難解な科学的説明を必要とする機械を用いてはならない”の二つだが、吾輩が見たところあの部屋は一見密室のようでいて実は次元転移装置が多数設置されていたのだよ。だからあの部屋には誰でも出入り可能だったことになる」
「な、次元転移装置だと…!」
若旦那が音を立てて立ち上がる。
「親父め、そんなアンティークを俺に内緒で設置してやがったのか…最低でも200年物だぞ…」
「そして次に、”犯人は物語の最初に登場していなければならない”、”探偵自身が犯人であってはならない”、”双子などの一人二役はあらかじめ読者に知らされなければならない”に関してだが」
教授は縛り付けるような重い視線を探偵弟に向ける。
「今思えば君の行動は最初から怪しかったのだ。”双子探偵”の弟として殺人事件を解決するはずだった君が、果たして冒頭のシーンで描写されていたかね?」
「…」
探偵の弟は明らかな動揺を見せている。すべて教授の言う通りだったからだ。
「待ってください」
探偵の兄の方が教授に反論する。
「急にそんな説明をされても、読者は納得してくれないでしょう。なにせ彼らはここまで何も知らされていないのですから」
「いや、それでいいのだよ」
教授は当然のようにそこまで考慮していた。
「”探偵方法に超自然能力を用いてはならない”、”中国人を登場させてはならない”、”偶然や第六感によって事件を解決してはならない”、”読者に提示されていない手がかりによって解決してはならない”についてだが」
はっとしたように、双子探偵の兄は弟を見た。これらもまた、破壊されたノックスの十戒の一部であったからだ。
「ノックスの十戒がもう存在していない以上、中国気功の伝承者である吾輩にとっては、現場で犯人が落とした袖のボタンを見つけ出す程度に運気を高めることなど造作もないのだよ」
無意識に片袖を握りしめていた探偵弟に向け、教授は手にしていたボタンを投げた。
「そして最後に”助手役の登場人物は自分の判断を全て読者に知らせなければならない”」
教授が向き直った先には、もう一つ真犯人と同じ顔がある。
「もしや君は、弟が真犯人であることに気が付いていたのではないのかね?」
さてね、と探偵兄はとぼけたような顔をした。
「私はいつまで探偵で、いつからあなたの助手役だったでしょうか?」
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こうして前代未聞の殺殺人事件事件は幕を閉じた。
全ては殺人事件を憎むあまりに殺殺人事件事件を計画した探偵弟の犯行であった。
その前代未聞の犯行方法について、殺人事件を殺したその方法について、ノックスの十戒が存在しなくなったこの世界では読者に公開される義務はないだろう。
この世界は、ミステリー作品という固いルールによって縛られることはもうないのだから。
「ところで、殺人事件殺しはどんな罪に問われるのでしょうか」
安堵が包む空間の中で、探偵兄は静かに教授に尋ねた。
「さあ、どうだろうか」
教授は気の抜けたような顔で天井を仰ぐ。
「実際のところ殺人事件を殺したことで人間一人を救っているわけだからね」
その表情は、もはや殺人への情熱に囚われていないように見えた。
「大変だ皆!」
安息もつかの間、騒々しく若旦那が部屋に入ってくる。
「ど、どうなさいました!」
駆け寄った使用人に肩を支えられながら、息も絶え絶えに若旦那は叫んだ。
「こんどは”ラブロマンス”と”異世界転生もの”が殺されてやがる!!」