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UXやる人がぶつかる「デザイン本当にこれでいいの…?」への私なりのアンサーと、構造的な問題について

今年でUX領域10年目になります。
普段はUXリサーチャー / UX Directorをやったり、UX人材をどうやって育てていくのだろうか?と考えたりもしています。(AIはその片手間に触れてます)

そんな中、ある程度経験のあるUXリサーチャー/デザイナーのUXに関する悩みを聞くことがあるのですが、以下のような話に及ぶことがあります。

・何を学んでも「これでいいのだろうか……」という悩みがいつまでも消えない
・なにかかが足りないのに、その「なにか」がいつまでもわからない

UX/UXデザインに関する知識や実践をある程度積んで来てたが「なにか」が足りない。これは正しいのか?という疑問が払拭できず、それゆえ自信を持てない…。これはどうすれば解決できるのでしょうか?

この記事にはそれについての私なりのアンサーと、(諸々の)構造的な問題について書きます。

あらかじめ伝えておくと、この記事に何かを期待してきた人の8~9割にとって思っても見ない話が書かれているのではと思っています。
この記事にはその悩みを解決するコンセプトは含まれていますが、UXリサーチ/デザインの劇的な知識も、テクニックも何も含まれていません。あるいはこれを聞いてあなたの悩みが解決することもありません。
なぜならその悩みはそのような単純な話では無いからです。

もしあなたがUXデザイン初学者ですと、こういう壁にぶつかる前かもしれません。少なくともこれはある程度やり方を覚えて、手元の業務は一杯一杯にならずに回せるようになった先でぶつかる可能性があります。
これらのコンセプトが形になるのにとても時間がかかるので、直面してから読むより早めに知っておくことに越したことはないと思っています。

知識の構造

初学者のUXリサーチャー/デザイナーに知識や実践が足りないのはその通りであると思われますが、ある程度(2~3年?)経験を積んで来たにもかかわらず全く自信を持てないのはUXリサーチやデザインに対する自信は知識を学ぶことや今のまま実践をつんだからと言って形成されるものではないからです。

普段あまり意識されないことですが、まず知識というものには形式知、暗黙知の二つのタイプがあります。

形式知は言語や文章化が可能、暗黙知は言葉にはしにくい知識

形式知はすでに言語や文章などに落とし込まれていて明確になっているもの、暗黙知は言語にしづらく身体や精神を持って実践の中で形成するもののことだと思ってください。
何事も知識を習得するにはこの両方が大事で、頭と身体の双方で理解することで学習の質を高めることができます。

いわゆるUXデザインの手法やプロセスは形式知で、手法やプロセスを実践する中で感じることは暗黙知…にあたるのですが、実は多くの場合この実践のやり方があまりいいやり方ではありません。
あとの構造的な問題の部分でも触れますが、UXデザインはこの実践のやり方を把握した人がいないままプロセスだけ流布され、基礎的な考え方を教えてくれる人がいない中、現場の人が模索の中であまり筋の良くない…やり方で経験を重ねている…ということをよく感じます。

もちろん現場ベースで始まるリサーチ組織の苦しさは察するものではありますが、あなたたちの不安は単に「教えてくれる人がいないから不安」や「自分でキャッチアップしてるから不安」…というレベルのものではなく、そもそものUXデザインをやる前に基礎として築かれるべきマインドが構築されなかったゆえにUXリサーチ/デザイン自体への捉え方事態に歪みが生じ、それが自信のなさにつながっていると私は考えます。

私なりのアンサー

私なりの結論を述べると「UXデザインに関して自信を持てないのは、知識や実践が足りないからではなく、そもそもの人やものごとの捉え方がUX的に望ましいまなざしではないから」と考えています。

まなざし
ざっくり言うと、ものの見方、捉え方、目の向け方そのもののこと。
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まなざし、眼差し、あるいは視線 (フランス語: Regard、英語: Gaze) とは哲学、批判理論、美学、メディア研究、芸術批評、社会学、精神分析学などで、見ること、見られることを指す言葉であり、単に目で見るということのみならず、対象となるものをどのように認識するのかに関する特殊な哲学的意味合いをこめて用いられる。

私は「UXリサーチ/デザインとは不確実性と向き合い多元的な視点から最善の解を探求し続ける営みである」と捉えることが重要と思っています。

もっとシンプルに言えば、
「人と社会とUXデザインには正解はなく、全てに答えはない」と言う事実に向き合い、そのように物事を捉える努力をしつづける。これだけです。
どこまで行ってもUXデザインには正解がなく、私たちはその中でできる限り最善のものを模索していくしかありません。

知識や実践を積んだとて「毎回正解を導き出せるようになる」ことは永遠にありません。なぜならそもそも導き出すべき正解が存在しないためです。
ある程度妥当さを感じられるものに毎回たどり着けるようになるだけで、どちらかといえば「今回も逃げ切った…」という気持ちが強いです。

それゆえ、UXリサーチャー/デザイナーは(存在しない)正解を導き出せないことに苦しさを感じるべきではなく、そもそも正解が存在すると言う思い込みを捨てその中で最善のものを目指していくしかありません。

これは決して諦めなどではなく、そもそも「正解がある」と言う言説自体がただの甘くて魅惑的な共同幻想です。
UXリサーチャー/デザイナーは、人や世界がそのような構造であることに特に向き合う必要があります。

「そんなの当たり前」と普段から思ってますよね?それがそうでもないんです

当たり前と思いますよね。思いましたか?
人と社会とUXデザインには正解はないなんてそんなこと知ってて普段UXデザインやってますよね?

えぇ。でも違うんです。
世の中の多くのUXリサーチャー/デザイナーは、人と社会とUXデザインには正解はないと知識として知っているが、人と社会とUXデザインには正解があるという思考と物の見方をしています。
そして基本的にそのズレを自覚してすらいません。
当然、それを前提とした実践にも至っていません。
言ってることと考えてることが全然噛み合ってないんです。

なぜそんなことが起きるのか?

これはこの記事ではあまり触れませんが、理由は下記ではないかと考えています。

・そもそも「正解がない」という事実はあまりに怖く、人間にとって直視するには辛すぎる
・それゆえ現代は特に「正解を求める時代」であり、人々は何かにつけて「正解」を見つけたがる
・私たちは生まれてこの方「正解を求める時代」に生きているため、多くの人と同様に無意識レベルで正解を求めている。正解を見出さないものの見方を知らない
・しかしながら周知の通りそもそも人と社会とUXデザインには正解が存在しない
・つまり、存在しないものを見つける努力をし、見つからない…と空回りしてきた
・そして、UXデザインに自信を持つために必要なのは知識だと思って、この思考の癖に気づくことなく過ごしている
(「自信を持つために知識が重要」と誤認しているのまた、「正解を求める時代」に毒された考え方故です)

現代はVUCAの時代など言われますが、未来が確かだった時代など存在しませんし、まるで「今までは正解が存在した」みたいな物言いです。
VUCAな時代なのは確かでしょう。でもいつだってVUCAでした。その上で、私たちはそれに向き合う不確かさを受容するまなざしをもてているのでしょうか。

「正解を求める」思考特性

「正解を求める」の私たちの無意識レベルで正解を求める/正解を見出そうとするものの見方について考えていきましょう。
この思考を変えていくことこそが、UXリサーチャー/デザイナーに必要なことではないでしょうか。

1.私たちは常に無意識に正解を求めている

あなたはUXリサーチャー/デザイナーとしてこのようなことを考えたり、先輩に聞いたことはありませんか?例えばペルソナを作る際に。

・「これって〇〇すればいいんですか?」と正しいやり方を確認した
・(返答をもらって)「なるほど!そうやって考える・捉えるんですね!」
・(返答をもって)自分の考え方が間違ってないことを確認した

はい。
今答え合わせしましたね?
もちろん諸々を考えると会社のお作法を聞いたり、ジュニアの頃にある程度の補助をしてもらったり、ディスカッションすることは必要ですが、答えがないと言いましたよね?
先輩が言うから正しいわけではありません。会社がやってるから正しいわけではありません。インフルエンサーや本に載ってるから正しい、わけではありません。
そして、この発言をすることが問題というより、返答をもらった時にほっとしましたよね?それは「正解をもらって安心した」気持ちになったんじゃないですか?
いかがですか?自分はどうでしたでしょうか。私はそうやって安心した過去があります。
でも、答えはどこにもないのだから、そもそもこの思考はよくないのです。

2.仮説を立てる

現代社会、特に仕事では仮説を持つことを求められがちです。
例えばこの話だって、「こういう話かな?」って思って読むじゃないですか。
それって、思考レベルで現代社会に絡め取られたあなたのバイアスの中で設計した理解の筋道に、相手の意見を誘導して聞いてるんですよ。

だから仮説を持って話を聞く時点で、もう答え合わせになっているんじゃないでしょうか?

※もちろん時間などの関係で、仮説を立ててある程度妥当な回答を取得するリサーチ手法を否定するわけではありません。ただ、それが一番理解出来るリサーチではないのです。

3.ものごとの判断が早い

正解がないということは何事も「決めつけ」という行為はできないのではないでしょうか。
話を聞いて素早く、これが正解だよね?こうだよね?という判断をするのが決めつけですが、これでは相手の意見をフラットに聞いて組み立てると言うことができていないのではないでしょうか?
結果として表面的なことを見てすぐわかった気になりリサーチの深度が浅くなっています。
正解を求めないと言うことは、より良い判断をするためにゆっくりと物事を捉えることです。
正しく理解するためには潜る技術も大事ですが、同じぐらい「ここまで潜れば大丈夫」と判断するタイミングを遅くすることも大事です。

4.思い込む

「思い込み」はバイアスと早い判断の複合です。
このままでは意見をそのままフラットに受け止めることが難しいです。

例えばあなたが神を信じていない人でインタビュー相手が「神は居ます」と答えたら、その回答をどう捉えるのが望ましいでしょうか?

この世界に事実として神は居ないが「神を信じる人」だと意見を受け止める?
この人は偶然の積み重ねに神という名前を当てて形容していると扱う?

さて、そもそもUXリサーチとは相手(人)を理解するために行うものですが、UXリサーチにおける一番理解度の高い状態ってなんでしょう?
ここではUXリサーチにおける一番理解度が高い状態は、(存在レベルで)100%その人になり、その人が主観的に感じることを同様に感じることとします。人間である以上は到達できませんが、この定義にはある程度妥当さを感じています。

この例を元にした時、インタビュー相手が「神は居ます」と答えた時にそれを観察的に記述するのではなく、「同じ神が見えるまで祈る」という向き合い方が望ましいのではないでしょうか?
このようにあなたの中の思い込みや正しさから開放されることが世界をフラットに見るコツです。

5.ここまでの話を読んで自分が間違っていたと感じる

この文章を読んで、「私は間違っていた…」とか思いましたか?
それってまだ正解を求めていませんか?
正解がないって言いましたよね?
私が正しいとか、あなたが正しいとか、間違ってるとかないんです。
そして、これもまた「言ってはいけない」などと生易しい話なのではなく、無意識にジャッジすることがもう現代社会に絡め取られている証拠です。
これは私が10年やってきた中で感じていることですが実はこの記事もただの幻想かもしれません。
もしこの記事を読んで答えをもらってほっとした気持ちになっているのは、これのことを「正解だ」と思ったからではありませんか?

まなざしを変えることがどのようにUXリサーチとデザインに活きるのか

さて…ここまでいかに「正しさを求める」思考をしているかという話をしてきたのですが、なぜ正しさのまなざしはUX的ではないのてしょうか?

先ほど述べたような、「UXリサーチ/デザインとは不確実性と向き合い多元的な視点から最善の解を探求し続ける営みである」と捉えること、あるいは、
「人と社会とUXデザインには正解はなく、全てに答えはない」と言う事実に向き合い、そのように物事を捉える努力をしつづけるというような、UX的まなざしは何に活きるのでしょうか?

より深く潜れるようになる

大前提ですが、リサーチをする際にバイアスによって作成しないようにしましょう/フラットに聞きましょう、と言われますよね?
これはバイアスをもつことが自己と対象の線引きや一定以上の理解の妨げになったり、意見誘導につながり、より良い理解に繋がらないためです。
バイアスまみれの正しさのまなざしから開放されることで、より調査対象の主観的感覚に近づくことができ深い理解につながります。

主観的理解が深まれば、より精度高く言語化することができる

リサーチにはまとめるフェイスが存在しますが、これらを記述する際により主観的感覚に近づいて書くことが出来るので感情や行動ロジックを詳細に書くことができるようになります。
これにより、今より高い解像度で分析することが可能になります。

模倣・憑依が上手になる

UXデザインをする際、あるいはレビューする際、ターゲットユーザーの主観に近づけていればいるほど、ターゲットユーザーにとって良いものかどうかの判断が感覚的に理解出来ます。

クイックに引き出せるペルソナが増える

これらを積み重ねると、段々とリサーチせずともある程度妥当なペルソナ像や行動の推測が描けるようになります。
これはおそらく正しさのまなざしから開放されることで理解力が向上し、人がどのように判断をするかのロジックの輪郭をなんとなく理解し、ペルソナ像の情報からロジックを推測できるようになるためです。
深いリサーチが、クイックにペルソナを作ることを可能にします。

このように、まなざしを鍛えることは重要であると私は考えています。

なぜ、この話がUXリサーチャー/デザイナーの間で疑問提起されないのか

さて、どうして今のUX界隈ではまなざしを鍛えるのが大事、と言う話にならないのでしょうか?
それはおそらくまだ日本のUX界隈が生まれて15年ぐらいで、世の中のUXリサーチャー/デザイナーと言われる人たちのほとんどは現場から出てきたか現場から出てきた人から習ったかのどちらかだからです。

今日のこの話は文化人類学のアイディアをベースとしています。
私はたまたま文化人類学を知る機会があってここに行きついていますが、現場でプロセスやメソッドを深めているだけではここには到達できません。そもそも"まなざしを変える"と言うコンセプトがそこにはないのです。

おそらくにこれからの時代で求められるのは、UXデザインと学術領域の融合や、プロセスやメソッドとしてではなく概念的なUXデザインを考えること、人や社会についてより正確に捉えられる方法を模索することでしょう。
UXデザインを単なるスキルのように捉えているうちは、きっとそこには辿り着けないのです。

私たちはまなざしについて目を向け、正解がないことを考えていかなければいけない

ここまでの話をまとめ、最初の問いに答えます。

UXデザインに関する知識や実践をある程度積んで来てたが「なにか」が足りない。これは正しいのか?という疑問が払拭できず、それゆえ自信を持てない…。これはどうすれば解決できるのでしょうか?

私たちがやらなければいけないのは「人と社会とUXデザインには正解はなく、全てに答えはない」と言う事実に向き合い、そのように物事を捉える努力をしつづけると言うだけです。(もちろん知識も重要ですよ)

「正しさがある」という世界から脱却することでそもそも自分の意見にも相手の意見にも優劣はなくただ状況にあった適切さがあるだけだとわかります。あとはより良いものを目指してそれを議論し、模索していくだけなんです。

これを実現するためにはまず自分の現在のまなざしに自覚的になり、ことさらにフラットに人とものを捉えられるまなざしに訓練する必要があります。

このまなざしの訓練にゴールはありません。
なぜならゴールとは「正解のまなざし」の単語だからです。
私たちはどこまでも不確かなものの中を歩いていくしかないのです

とはいえ、夢想家であるのではなく

以上のように、私はUXデザインの本質を「正解のない問い」に向き合い続けることだと思っています。
ユーザーの多様な現実を謙虚に受け止め、自らの先入観を疑い、常に新しい発見を求めるまなざしを持つ必要があります。

しかし同時に、ビジネスの文脈でUXデザインを実践する以上現実の制約条件の中で最適解を見出していかなければなりません。
UXへの理想を追求しつつも、さまざまな意向や事業価値との両立を図る必要があるのです。

ここで重要なのは、理想と現実のバランスを取ろうと努力することだと考えます。
「正解はない」という前提に立ちながらも、その時点での最善の答えを導き出す。限られたリソースの中で、可能な限りユーザーに寄り添う。ビジネスの制約を理由に妥協するのではなく、制約の中で知恵を絞る。そのような柔軟な思考と行動力が求められるのではないでしょうか。
UXリサーチャー/デザイナーは人とビジネスとの対立を煽るのではなく、人とプロダクト/サービス/ビジネスの間の橋渡しになることを目指しましょう。
私たちは翻訳家とファシリテーターの間くらいの立ち位置です。

理想を掲げつつ現実と向き合うことは決して容易な道のりではありませんが、UXデザインの可能性を最大限に引き出すために避けては通れない挑戦だと思っています。
私たちがなすべきことは、ユーザーの真の課題を見極める眼を養いながらビジネスの世界でそれを実現する力を磨き続けること。正解のない問いに誠実に向き合いその時代時代の最適解を追求し続けること。それこそがUXデザインの真髄であり私たちに課せられた使命なのだと信じています。


まなざしの鍛え方

ここまでまなざしの話をしてきました。
ではどのようにまなざしを鍛えるのかが気になりますよね。

まなざしを鍛えるための具体的な方法としては、以下のようなものがあると私は考えています。

  1. 自己の思考パターンを内省する

    • 自分が無意識のうちに「正解」を求めていないか、思い込みに陥っていないかを常に振り返る

    • 自分の判断の根拠を問い直し、別の見方はないかを考える習慣をつける

  2. 多様な人々との対話を重ねる

    • 年齢、性別、職業、文化的背景などが異なる多様な人々と積極的に対話する

    • 自分とは異なる価値観・世界観に触れ、物事の多面性を体感する

  3. フィールドワークを実践する

    • ユーザーの生活環境に飛び込み、彼らの日常を体感する

    • 机上の仮説にとらわれず、リアルな文脈に照らして考える習慣をつける

  4. 学術的な知見を学ぶ

    • 文化人類学、社会学、心理学など、人間や社会を探求する学問領域の知見に触れる

    • 人間理解の切り口の多様さを知り、思考の幅を広げるヒントを得る

  5. 自らの経験を相対化する

    • 異分野の人々と交流し、自らの専門性を相対化する

    • "当たり前"の枠組みを問い直し、新しい気づきを得る機会を積極的に作る

ちなみに、学術的な知見のあたりでおすすめなのは文化人類学とSDL(サービスドミナントロジック)です。

文化人類学
ざっくりいえば文化人類学は「人や社会/文化を知ること」に関する領域です。
もともと文化人類学とは西洋の研究者が熱帯の原住民の文化を理解する際に「西洋的なまなざしで彼らの文化を文明的/非文明的(西洋的/非西洋的)と判断するのは正しいのか?」と感じた疑問から生まれた学問で、自分と価値観を同じとしない人たちをどのように理解するのか?ということを掘り下げる学問です。まなざしの話です。

初学者向けにはこれが良いらしいです。

これとか良い…みたいです。まだ読めてませんが。

SDL(サービス・ドミナント・ロジック)
SDLはちょっと経路が異なり、本来まなざしに対する学問ではなく、これはサービス・サイエンスと言われる学問で「私たちが作るサービスはどのように形成されるか」に関する領域です。
読み始めてみればわかると思うのですが、今の私たちのプロダクト/サービスの捉え方自体があまり正確でないよ、という今のまなざしを否定されるような話が続き、これは人や世の中を捉える上で非常に重要な話であると私は認識しています。私たちが作るものを理解するためにも、そしてまなざしを変えることがいかに難しいかも、両方触れることができます。

その他、行動経済学、認知科学・認知心理学、社会学、心理学、表象文化論とかも良さそうです。

最後に

私たちUXリサーチャー/デザイナーはどこまでいっても「正解のない問い」に向き合い続ける職業です。ユーザーの複雑な現実に寄り添い、不確実性の中で最善の解を探求していく。時には自分の常識や価値観を超えた話に向き合う。それは容易な道のりではありませんが、だからこそやりがいのある挑戦なのだと思います。

これからのUXデザインには、より一層まなざしが求められるでしょう。
人間と社会を見つめる確かな眼差しを持ち、自らの先入観を疑い、常に謙虚に学び続ける姿勢が大切ではないでしょうか。そして、そのまなざしを日々の実践に活かしていくこと。それが、よりよい体験を生み出すための第一歩となるはずです。

変化の激しい時代だからこそ、UXデザインもまた進化し続ける必要があります。私たちには、変化を恐れない勇気と、未知なるものに挑む探究心が求められています。一人一人が自らの可能性を信じていかねばならないのだと思っています。

その他

1.
この考え方をテーマにしたUX/UXデザインを深める会を社内で作りました。
どのようにまなざしを養っていけるのか、日々模索中です。

2.
最近、UXとAIに関してのtwitterのアカウントを作りました。
興味のある方はぜひどうぞ。
すでに何件かお問い合わせもいただいてます。ありがとうございます。
(名前はいくじゃなくてすみません)

3.
この話に、過去に書いた記事が関連してる気がします。人生ってほんと積み重ねですね


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いく@アートがわからない
いただいたお気持ちは、お茶代や、本題、美術館代など、今後の記事の糧にします!