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エヴァを見て気づいた私の物語の捉え方 /あるいは「考察」という概念について

最近話題のシン・エヴァンゲリヲンを見るために、エヴァの序・破・Qを見ました。

事前にちらちら感想を見ていた身としては、Qが気になっていました。なんでも、「ラストの意味がわからない」「このまま9年待たされたのか」など意見があり、シリーズの中でも難しい作品みたいだからです。

さて、戦々恐々として序・破・Qを見た私ですが、その上で私はこれを「わかりやすい物語」だと判断しました。

今日はなぜ自分にとってはエヴァはわかりやすい物語だったかについて書き、その上でシン・エヴァンゲリヲンを予想し、この「何をわかりやすいとしているか」によって、「私の物語の捉え方」ついて考えて行こうと思います。

※この記事は序・破・Qおよびシン・エヴァンゲリオン劇場版CMのネタバレが含まれています。流石にこれらを見ない人が読むのは相当大変だと思います。

私とエヴァについて

私とエヴァの関係はそんなに密接とは言えません。
多分7年ぐらい前にアニメシリーズを全部見たのですが、それ以外はほぼ接点を見たことがありません。特に何を感じたか覚えてません。
あとは上野の森美術館でやっていた、ヱヴァンゲリヲンと日本刀展いきました。
当時、清麿に興味があって、刀を結構見てたんですよね。

それから、大学院2年の頃、CGアニメーションに興味があって、ラミエルの変形をトレースするために、序を借りて見た気がします。
ラミエルの変形、めちゃいいですよね。多くのシーンはアニメーション初心者でもトレースしやすいので、習作としてオススメです。

今回なぜシン・エヴァンゲリヲンを見たいと思ったかというと、話題だから、の一点に尽きます。あるいはお祭りにあやかろうという気持ちでしょうか?

私とエヴァは、それぐらい。特にファンでもないです。

新劇の感想

一応、序・破・Qの感想を書きます。ネタバレです。

序:「僕は、エヴァに乗るしかないんだ」

見てる時の私の感想「これパワハラでしょ…」

シンジくんは、他者にエヴァに乗ることを要求され、自らの意思ではなくしぶしぶエヴァに乗ります。んでどちゃトラウマ作ります。でも乗ることを強要されます。かわいそう…。

シンジからすれば、巻き込まれた物語だし、周りの人間からすると、できる人間のくせに何もしないみたいな空気感があります。

--葛城ミサトはパワハラクズ

ミサトとかいう女が嫌いです。

ミサトは、第3新東京市に一人引っ越してきたシンジが、確執ある父親と同居しないことを聞いて、「そんなんじゃダメよ!」と自分の家に引き取ります。できるお姉さんなのかなぁとか思ってました。

これは、ただの「自分が大人だと思ってる子供」。

ミサトは複数の選択権を提示し、自由を与えているように見せかけているが、シンジからすると実質的にはもう片方を選ぶことができない。

私たちはどうでもいいの、エヴァに乗るかどうかはあなたが決めることよ!(あなたが乗らなければ綾波はボコられるし街は壊れるけど)

シンジが失敗した時や苦しいことになった時、ミサトは「あなたが自分で選択したこと」と言うことができる。

みんなも苦しい。お前だけじゃないんだ!といってシンジを説得するミサト、純粋だからそれにほだされてしまうシンジ。なんと言うブラック企業…。

--碇ゲンドウは優秀な司令官

個人的には碇ゲンドウ反感がないですね。と言うか好感度が高い。

シンジに厳しく当たり、レイが死ぬ選択肢を見据えながらも「いかなる手段をもってしても、我々はあと8体の使徒を倒さねばならんのだ」と口にする。

親としてはひどいと思うけど、司令官としては優秀なのだと思います
人類の滅亡を目の前にしているとしたら、家族が最優先じゃないことを、私は責められない。

--まとめ

碇ゲンドウ、自分が人類を救う仕事だとかいうことに誇りも何も感じてなさそうですが、ミサトとかいう女は感じていると思います。
「私たちが世界を救ってるのよ!」とか言ってそう。

ゲンドウは目的のためにシンジに厳しく当たりますが、ミサトは端的に感情に振り回されてるだけ。

私はこのパワハラクズが嫌いです。

これ、エヴァから改名してほしい。
上司に『お前が巨大ロボットに乗って世界を救え』と言われたがどう考えてもブラック企業な件について」とかどうですか。

--その他

やはりラミちゃん可愛い

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ところでATフィールドって、心の壁が厚れば厚いほど強かったりするんですか?

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破:「やなことから逃げ出して、何が悪いんだよ」

「上司に『お前が巨大ロボットに乗って世界を救え』と言われたがどう考えてもブラック企業な件について」2です。

--ゲンドウとシンジがユイの墓の前で話すシーン

破の最初、ゲンドウとシンジがユイの墓の前で話すんですけど、これめちゃくちゃいいシーンですね。

ゲンドウって、めちゃくちゃ不器用で偏屈だけど、彼なりにシンジと分かり合えないか模索してるんですよね。

--ゲンドウがシンジを褒めるシーン

サハクィエルをキャッチしたシンジをゲンドウが褒める。

ゲンドウって打算的な性格ではないから、ここでシンジのモチベを上げておこうとかではなく、本当に褒めたのだと思う

彼なりに、シンジが誇らしいと思ったから、だから名指しでシンジだけを褒めたのだと、私は思います。

--ゲンドウがシンジとご飯食べることを了承するシーン

ゲンドウはレイに3人で食事会をしましょうと言われ、「その時間はない」と向き合うことを逃げようとする。
逃げようとするが、レイの視線にユイを垣間見、そして承諾する。
ゲンドウ自身も、やはりシンジを拒絶しているわけではない。

--アスカが身を引くシーン。そして3号機に乗るための準備をするアスカ

レイが企画する食事会と3号機の起動実験が被ったから、アスカは自ら身を引いて、3号機への登場を志願する。いい子じゃん。
レイはそんなアスカにありがとう、とメッセージを送る。
最初はギスギスしていた二人が、友達になったんだなぁと感じるシーンでした。

3号機に乗る前にミサトに、自分の人生観を話す姿は、これからトラウマ作るからお前ら覚悟しとけよ、と言うシーンでしかないです。死亡フラグ立てないでほしい。

落とすために上げるな。

--アスカと戦えないシンジ、戦うことを強要しないゲンドウ

アスカの乗る暴走した3号機とシンジは向かい合うが、シンジはアスカを攻撃できない。それでアスカを殺すよりはいい、と、口にします。

だから、ゲンドウはダミープラグを起動する。
そして、シンジの乗るエヴァは、シンジの意思に関係なく、アスカを再起不能まで追い込む。

この時のゲンドウってね、戦うことを強要しないんですよ。実は。

彼は司令官として使徒を倒さなければならない。
前作で、「いかなる手段をもってしても、我々はあと8体の使徒を倒さねばならんのだ」と言っていた。
例えそれがアスカの乗る3号機だろうと殺さなくてはいけない。
だから、シンジが戦えないと判断したらダミープラグに切り替えます。

ゲンドウは、シンジが止まれ止まれと喚いても、それを喚くなと叱らない。
シンジの心のあり方を、否定するほどには彼を拒絶していない。
そこにゲンドウの人間性を感じます。

--シンジとゲンドウの分岐点

アスカをダミープラグでボコボコにしたあと、シンジはキレて、ジオフロントで暴れ回る。でもその間、ゲンドウは止めないんですよ。

その時に、シンジはゲンドウに、「父さんも大切な人を失えばいい」と言われ、そこでゲンドウははじめてLCLの濃度を上げ、シンジを強制停止します。
それはゲンドウにとって看過できない言葉だったのだと思います。
彼は、ユイを失って生きてるのだから。
これまではね、ゲンドウはシンジのことを拒絶してないんですよ。
多分ここが二人の明確な分岐点。
この時に、二人は親子として再起不能になったんじゃないかな。

--ネルフを出るシンジ

上司と部下、という立場での説教。
そして父親として、「逃げるのか?」「大人になれ」と言うゲンドウ。
いや、わかる。
一方で、誰かシンジの周りにまともな大人がいてくれれば…とも感じます。

「やなことから逃げ出して、何が悪いんだよ」と言うシンジの気持ちもよくわかる。

--ゼルエル襲来

ゼルエルが襲来し、レイもマリもボコられます。
そして、レイはゼルエルに取り込まれてしまいます。

シンジはエヴァに乗りたくはないが、逃げられない、という葛藤を抱えています。

--レイを救うために自発的にエヴァに乗る

これは象徴的なシーンですね。
シンジが初めて自分のためにエヴァに乗って、レイを救います。

それまでは誰かに与えられた目的としてエヴァに乗っていましたが、自分にしかできないこととして、強い意志でエヴァの乗ることを宣言します。

ゲンドウは、拒絶しないんですよ。シンジの選択を。

そして、ゼルエルとシンジの戦いを、逃げずに間近かで見ています。赤い液体を頭からかぶっても、ゲンドウは動かない。

--覚醒とニアサードインパクト

シンジがゼルエルにボコられ、エネルギー切れで終わったと思ったら、急に初号機の上にエンジェル・ハイロウが出ます。

擬似シン化第1覚醒形態と言うらしいですね?

そして、レイを助け…あ、急にサードインパクト始まるんですね!?

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そしてその後Mark.6と共に月から降りてきたカヲルくんにロンギヌスでぶち抜かれ沈黙。

--まとめ

ロンギヌスってそんな効果があるんですね。

アニメ版は使徒をどう倒すかというテクニカルな話に終始していたが、映画はそういった話が省かれているから話がわかりやすいです。エヴァは感情劇だと言うことが非常によくわかる。

--その他

磔刑モチーフ多いですよね。

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あと、加持リョウジ、異常にまともでビビる。

Q:「カヲルくんのために、みんなのために、槍を手に入れる」

「上司に『お前が巨大ロボットに乗って世界を救え』と言われたがどう考えてもブラック企業な件について」の3です。

--Qから一気にテクノロジーが進化するのがいい

急にハイテクになりますね。

このGUIかっこよくて好きです。色使いも好き。SFと言う感じ。

--安定のパワハラクズ

ミサトはもう少し喋ってほしい。
と言うか、周りの人シンジくんを恨みすぎである。
どんなミスをしたとして、それが完全に本人のせいだと言えるだろうか?
でもみんながそんな感情を抑えられないほど、シンジは劇的な破壊をしてしまったみたい。

エヴァQ、状況を理解できない人が、感情と仕事を分けられない人にいじめられる話。

事情を説明されても、急にこんなこと言われてもわけわからないですよ、って言うシンジ、まぁそれはそう。

シンジくんのシンクロ率は、0.000%になっている。エヴァ乗れないね。

感情まみれのミサトに、仕事に感情を持ち込まないリツコ。

--カヲル、登場

カヲル、いいやつだな…。
カヲルくんのシンジに寄り添う感じが、パーフェクトコミュニケーションですよ。

シンジくんの周りはまともな人間が少ない。
ゲンドウはコミュニケーションが不器用すぎ、ミサトはただのパワハラクズガキ、レイは感情が未分化、アスカとはわかり会える前に自分の手で殺しかけ14年後には拒絶された、トウジやケンスケはシンジにとって友達だったけれどエヴァに乗る痛みを共有できる相手ではなかった、リツコは仕事に感情を持ち込まない、ただリョウジだけは立場が違うけど優しかったな。
シンジにとってカヲルくんは、初めて感情を共有できる相手だった。

もっとシンジにちゃんと接してあげる人間がいたら違ったんじゃないかな。

エヴァという物語、ミサトって女に、他者に向き合う能力がないのに向き合おうとしたからバグってません?
シンジが一人暮らししてたら今頃こんなにこじれてないでしょ。
私はミサトが嫌いです。

--カヲルは初めての自分を置いていかない相手

階段のシーンが象徴的。一度先行して降りるものの、怯えるシンジを迎えに来て手を差し伸べる。他にこんなことをした人は誰もいなかった。誰も、ね。

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--沈黙を選ぶゲンドウ、沈黙を望まない冬月

ゲンドウと冬月がいるシーン、冬月が「お前の生き様を見せても、息子のためにはならんとするか」と言います。

え。

つまり、ゲンドウは、自分の行いを省みていると言うことですか。
自分の目的は息子に誇れるものではなく、ある意味では息子を自分の目的のために使っており、それを自覚した上で生き様を伝えていない、と言うことですか?

ゲンドウは、生き様をシンジに伝えない道を選んできましたが、冬月はそれを望みませんでした。

--真実を知るシンジ

冬月は、シンジを将棋に誘いゲンドウとユイのことをシンジに伝えます。

ゲンドウの過去を知り、ユイのことを知り、感情がぐちゃぐちゃになるシンジ。エヴァンゲリヲン初号機、お前のお母さん物理的に溶けてるってよ。

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庵野さんってこういう表現するのね。

だからシンクロ率が0.000%なんですね。
息子をこれ以上苦しめたくないお母さんの愛なんじゃないでしょうか。

--カヲルくんは性的に見える

そんなシンジをカヲルくんは寄り添い、救います。んで、いちいちセクシー。

カヲルくんとシンジのやりとりは、何ともセックスのメタファーが多いと最感じました。しかし、よく考えればセックス自体が親密さのメタファーなんだなと思い出しました。

つまり、人間は他者をセックスしてから受容するわけではなく、他者を受容してからセックスする、ということです。
だから、セックス やセックス を連想させる行為は、受容のメタファーですね。シンジがカヲルくんに心を開いたということ。

--フォースインパクト

まぁ色々あってフォースインパクトが起きます。

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リリスから2本の槍を抜くとき、「カヲルくんのため、みんなのため」と言って槍を抜く。槍を抜くと言う目的はゲンドウ→カヲルくんと与えられた目的ですが、自分のためかみんなのために選択したかは難しいところ。
でも、おそらく、2本の槍を使えば世界を作り変えることができる(≒元の形に戻すことができる)と聞いて、贖罪したかったのだと思う。みんなに許してほしい、という。

だから、それが裏目に出てフォースインパクトを起こしてしまい、「これを僕がやったのか!?」となる。みんなのためにやったつもりなのに!って。

これを契機に、シンジは心神喪失となる。抜け殻のよう。

--まとめ

話としては、「カシウスとロンギヌスじゃなきゃいけなかったんだけど、ロンギヌス二本だから事故った」ということらしい。

まぁ確かによくわかりませんでした。みんなの言っていたやつはこれか。

--その他

ゼーレが出てきたシーン、グリーンバックと判明した。どこにプロジェクターがあるんだろう。

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マリについて

マリってユイを知ってる人間なんですね。かつてエヴァに乗り、呪いを受けたのだと推測される。ユイの友人なのでしょうね。

ヴィレ側にいると言うことは、ゲンドウを止めたいのですね。
それは世界を滅ぼしたくないから?それとも二人を止めたいから?

3部作を見たまとめ

Qのラストは少しわからないところがありますが、こうやってみるとエヴァってシンプルです。

ざっくり言うと、エヴァって「自意識の形成期に、周囲からの圧力に対抗し、自意識を形成する少年の成長の話」なんですね。

序・破・Qでは自意識の形成にもがく姿が描かれています。

全体としては、「生命一個人としての目的は他者の中になく、人は自らの意思を持って行動しなければならない」という思想を感じられます。
そりゃ自意識が発達してない日本人には受けますわな、と言う気分。
全編が「思春期」についての映画とも言えるかもしれません。

逆にいえば、シンジに対してのゲンドウとパワハラクズからの異常な説明不足は作品演出としては正しい。
本人の自尊心を著しく侵害し、自立を阻害している。

あと、序・破とQって主題が異なるんですね。
それまでは人類と人ならざるものの戦いだったのに対し、Qは人間同士の戦いにシフトしています。これは…何だろう?

シン・エヴァンゲリヲンの予想

これらから考えられるシン・エヴァンゲリヲンの予想です。

今まではシンジが他者に目的を押し付けられ、自分の目的を見つけられないでいました。
シンでシンジは自分がどうしたいか/どうありたいかを見つめ直すことで、初めてゲンドウと向かい合うことが可能になり、自らの意思と自発的行動を持ってゲンドウの目的を否定し、親の呪縛から解放され、自らの意思で世界のあり方を獲得するのではないでしょうか?

シンでは、自らの意思でなんらかの不可逆な選択を行う、ことでそれを表現するのだと思います。
おそらく、ファイナルインパクトを自分で起こして世界を作り直すんじゃないですかね。ま、アニメ版もそうでしたし。

加持リョウジは今どこに?

破で出てきた加持リョウジは、Qでは全く出てきませんでした。
アニメ版では殺されるところが描かれるほどのキャラだったので、破の最後にニアサードインパクトに巻き込まれて蒸発したってことはないと思います。
そして、先程描きましたが、カヲルくんを除き、唯一シンジに触れた人物です。キーパーソンでは…?
ということは、シンでは大事な役割をするってことじゃないですか?

CMから得られる考察

このCMから得られる考察をします。

1.空が青い

このCMをみると結構青い空のシーンが多いですよね。
Qでは、明るい空を描くというシーンがほとんどありませんでした。
これは、一時的に明るい方向に世界が向かうことを意味しているんじゃないでしょか。

私の予想は、シンジとヴィレの努力で世界が明るい方向に向かう→ゲンドウがファイナルインパクトを起こそうとする→今一度世界が暗転する→ゲンドウを倒す→ファイナルインパクトをシンジが起こす→世界が生まれ変わる、です。

もしかするとゲンドウが5回目のインパクトを起こした、シンジが6回目を起こすのかもしれませんが。

2.親の否定

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どう考えても、自らの自発的意思を持ってゲンドウに立ち向かうシーンですよね。

父親との決別です。

3.敵対?

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カヲルくんと退避するようにシンジが出てきました。
もしかしてこの二人は戦うのかもしれません。

シンジとカヲルくんって、種族が一致しないから、多分共存できないんですよ。でも二人は友達です。そしてカヲルくんはシンジの幸せを願っています。
だからもしかすると、カヲルくんはシンジ自身の幸せ、シンジはカヲルくんを含めたみんなの幸せのために戦う、という可能性はあるんじゃないでしょうか。それは両立しないのかもしれません。だとしたら悲しい生き物すぎる。

(この予想はなんとも言えないなぁ)

4.「さようなら、すべてのエヴァンゲリヲン」

さようなら、すべてのエヴァンゲリヲンというセリフはCMの最後に挟まっています。

シンジにとってエヴァンゲリヲンって何なのだろう…?と考えたのですが、すでに答えが出ていました。

シンジにとってエヴァンゲリヲンは、「母」です。
だって、Qで、物理的に初号機に母が溶けていることが言及されています。

あぁ、エヴァンゲリヲンは、父親だけでなく、母親からの決別でもあるんですね。

エヴァンゲリヲンを捨て、何かを通してしか他者とつながることのできない自分が、その何かを捨て自分なりの道を選び取ったことを示唆しているんじゃないでしょうか。

追加の考察

これは、Twitterの反応から見る考察です。

エヴァが公開されてから、「良かった」と言ってる人しかいないので、
おそらく
1.物語を理解するに足る、世界観への謎と伏線が回収されている。
2.子を否定する親に対しての自立が描かれカタルシスを得られる
の、両方があったのだと思います。

そんなことはみんな知っていたかもしれませんが

という考察をしました。
このぐらいの考察はみんなしていたかもしれません。

なぜならこんなことはアニメ版の26話で全て説明されているからです。私は25年前の考察を掘り返してるだけです。

なんせ、26話ではあの伝説的なセリフがありました。
父にありがとう、母にさよなら、そして、全てのチルドレンに、おめでとう」。
エヴァンゲリヲンのテーマなんて、25年前にもう説明されてました。

お分かりの通り、ここから本題です(前置きが長かったね)
ちなみにここまでで3/4の尺を使いました。

物語の捉え方って人によって違うんですね

さて、ここまでの考察を読んだ人は気付いたと思うのですが、

私、世界観に対する考察一切してなくないですか?

ここ5年ぐらいずっと不思議に思っていたんですけれど、自分あんまり世界観を掘り下げる人じゃないみたいです。

私は、世界観ではなく構造が気になる人

私設定厨なところが見受けられるから、ハリーポッターが好きなんですけど、世界観とか謎にあんまり興味がないんですよ。
どちらかといえば、私はファンタスティックビーストの方が色々考えてみています。
私は世界観を掘り下げる人じゃなくて、物語の構造が気になる人ということみたいです。

例えていうなら、私は「ハリーポッターは勧善懲悪を描いた2000年代的構造の話で、魔法界という世界観を持つ」という捉え方をします。

だから私は、「エヴァは思春期の自我の形成の話」と捉え、そっちを掘り下げています。

私のいう”物語の質”

私は物語を見たときに、「主人公がどう変化したかについてが気になり」その上で「その詳細がどうだったか」は、あまり気になりません。

要するに、私は伏線回収されなくてもイラつかないし、世界観の整合性が取れてなくてもいいのです。あるいは物語がわからなくてもいいんです。

私の考える話の質は、そのテーマがいかに正確に描かれているかを重視しているように感じます(感情とか)。
世界観は、それを面白く描くためのスパイスぐらいに捉えています。

私は物語の構造を掘り下げるのが好き - 世界観は浸れればそれで良い。

世界に没入できないことに悩んでいた

私は、今までみんなみたいに設定の話をしたりすることに興味が湧かず、みんなみたいに作品に没入できないことに悩んでいました。

これ、熱量の違いなんじゃなくて、単純に何を面白いと思うかの違いみたいですね。

というか、”ファン”という概念はそういうものを指すのだと思います。
私は構造-コンテクストが好きですが、ファンはそのものが好き。

だから、エヴァンゲリヲンはわかりやすい

最初に書きましたが、私はエヴァンゲリヲンを「わかりやすい物語」だと判断しました。

なぜなら、テーマである「自意識の形成期に、周囲からの圧力に対抗し、自意識を形成する少年の成長の話」がこれでもかというぐらい描かれているからですね。

非常に良くできている…。

今からめちゃくちゃ水をさします

-- !Caution!--。
今から、世界観を掘り下げることをそれなりにDisります。

世界観を掘り下げて考察する人は、ここで記事を読むのやめた方が幸せかもしれません。

私は警告しました。

世界観を掘り下げることは何を意味するか

ところで、世界観を掘り下げる(一般的な考察)は何を意味するのでしょうか。
世界観とは「設定の集合」だと思います。
それって結局は、作り手の側に「答え」があるわけじゃないですか。
これって、鑑賞において、「答え合わせ主義」を採る人が多いということじゃないでしょうか。

極端に言うとこれです↓

「問. 次の『ハリーポッターと賢者の石』を見て、JKローリングの考えた壮大で緻密な設定として最も適切なものを、a~dから選びなさい」
とか
「舞台ロンドンの街並みを示したものとして最も適切な...」

はい。世界観の考察ってのは基本的にただの答え合わせ

(バカにしているわけではありません。クイズとしては楽しいと思ういます)

限られた情報か、答えを導き出し、自分の考えがテストの答えと合っていたかどうかを楽しむ行為です。

答え合わせは「考察」足り得るのか

私疑問なんですが、最初から答えが存在するものの答えを考えることって「考察」って言えるんですか
「導出」とかでなくて?

同じ傾向はアートの見方にも言えると思います。

最近人と話していると思うんですが、みなさん、「アートの明確な答え」いつも探してませんか?
自分はこれが○○だと思う、と言う考えをするのが正しいかわからなくて、誰かの正しい答えを読みたがってませんか?

その結果、「こう考えればいいんだ」みたいな、他者の考えをあたかも自分の考察みたいに取り入れて、考える力が衰えていませんか?

魅惑的な光を捨て、暗い海に乗り出そう

私は、他者の出した一見明確に見える「魅惑的な光」を捨て、あなたたちが自ら考察の「暗い海」に船出することを望んでいます。

みんなが自分なりの解釈を持つ世の中になってほしいですね。


いただいたお気持ちは、お茶代や、本題、美術館代など、今後の記事の糧にします!