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他人を説得するための「宗教」、 それから「床に落ちたものをすぐに拾う教」

最近、人と会話する上で「宗教」という概念を導入しました。

いわゆる一般的な”宗教”についてではなく、
普遍的でない、個人の信条として譲れないロジック」のことを宗教と呼ぶようにしました。

今日は、実はあなたは「宗教」の信徒であるということ、そして他人を説得するための「宗教」という概念について書きます。

私も宗教、あなたも宗教

宗教と聞くと途端に胡散臭く感じる人もいると思いますが、基本的に宗教とは「世界の捉え方」のことを指します。
各々が自分なりの「世界の捉え方」にのっとり行動するので、宗派が違う人にはそのロジックが理解できず、時には対立が起きます。
そういうと、いわゆるキリスト教ですとか、イスラム教みたいなスケールの話のことを考えてしまうのですが、実際はもっと小さいスケールにも存在します。

例えば…「床に落ちたものをすぐに拾う教」とか。

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はい。「床に落ちたものをすぐに拾う教」です。
あなたは知ってますか?
「床に落ちたものをすぐに拾う教」では、「床に物を落とした物を迅速かつ最優先で拾うこと」を教義としています。

おそらく、世界でもっとも力を持つ宗教の一つであり、非常に多くの信徒を獲得しています(スケール小さくないじゃん!)。

「床に落ちたものをすぐ拾う教」とは、床に落ちたものをすぐ拾うことを教義とし、例えば物を運んでる途中にぶつかった棚から何かを落としたら、今している作業を中止して落ちたものを即座に拾い上げ棚に戻します

私はその経典を見たことはないのですが、だいたいこんな感じだと思います。

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あるいはこのイメージかもしれません

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非信徒からみた「床に落ちたものをすぐに拾う教」

ええ、私は「床に落ちたものをすぐに拾う教」ではありません。

なので、彼らのロジックが全く理解できません。
動作を途中で止めるより完遂してからの方が効率よくないですか?

また、食べ物でない限り衛生面においても差し当たった懸念は存在せず、私は床に落ちたものを食べる習慣はないのでその点も変わりません。

中には落ちたスマホをすぐに画面割れてないか確認する人もいますが、スマホを地面から取り上げる速度とスマホの画面が割れてるかどうかは原理的に関係がないので、2秒後に拾っても、10分後に拾っても画面が割れてるかどうかは変わりません。

信徒の主張

ですが、そういう問題はないのです。

床に落ちたものをすぐ拾う教の信徒は物を落とした私にこう告げます。
床に落としたら拾うのです。拾いなさい。いますぐに。
なぜなら、それが教義なので。

いわく、「他に人の邪魔になる」だとか「他の人に拾う行為を押し付けている」とか言われますが、そんなことはありません。

私は、物を落としたことが人の邪魔/危険になると判断した時は作業を中断してでもすぐに拾います。

拾う行為を押し付けていません。すぐ拾わないだけで拾ってほしいのでも察してちゃんでもありません。
私はいずれ拾います。ただ、いまその必要を感じていないだけです。

私は、「常に、最優先で拾う」という教義に合理性を感じていないのです。

であれば、私からするとこれは科学的合理性とかそういう話ではなく、個人の信条/宗教を主張されているのに他なりません。

私がぱっと思いつく中だと、「話し合えばわかる教」とか「(任意の性別)は(任意の性別)より劣っている教」とかが存在します。

どこから宗教認定すればよいか

どこから宗教認定すればいいか…もまた宗教なのですが、

私は「特に優位な合理性がないのに主張したくなった時/されていると判断した時」としています。

何か言い争いをしているときに、自分が意地を張りたくなればそれは宗教ですし、相手が意地を張ってると感じたらそれも宗教です。

優位な合理性という単語は一意ではないですが、いわゆる科学的で厳密な合理性ではなく、相手と自分の間に共有している合理性。
あるいは「一般的に認識されている合理性」という解釈でも間違いなさそうです。

別にいいのです。あなたのいうことが通じなくても、それは悲しむことではありません。宗派が違うので、意思疎通には時間がかかりますし、必ず通じるわけでもありません。

私の家族が「床に落ちたものをすぐに拾う教」なのですが、その法に反する私は幾度なく諫められたことがあります。(時には嘲笑されることもあります)
この26年間、私の実行してきた啓蒙と脱宗教の促進は悉く失敗しています。

私は科学教

私は無数の細かい信仰を持っていますが、大きなスケールの、人格を貫く大きな柱としては科学を信じています。
科学的なエビデンスは合理的に見えますし、客観的事実は正しい…というのが私の世界の捉え方です。
(正しくは、科学的エビデンスが合理的なのではなく、合理的だから科学的エビデンスなのですが…)

私は無節操に科学を信じています。
神学が科学を超越する瞬間は存在しない、と思っていて、科学を妄信しています(”正しい科学”は常に正しいと思っています)。

ちなみに、「目に見えるものだけを信じる、神は目に見えない」というのはすでに科学教の色眼鏡をかけて世界を見ているとも言えます。
(全てのものが物理的なり科学的に目に見えるという信仰の上に成り立っている)

驕りを捨てて、宗教対立をプリミティブに分析する

私は科学教徒なので、往々にして多宗派との対立が起きます。

宗教対立なので、必ずしも自分のロジックで伝わるわけではありません。
というか”合理性を伴うロジック”自体がそもそも科学教の聖典であり(合理性自体が科学教のワードなので)、
多宗派が我々の理解し得る”ロジック”を持ち合わせている保証はありません。(これは逆も同じです)

そういったときに、科学教の人は他宗教の人を馬鹿にする傾向があると思います(カルティベートされてない、のような)。
これに関しては他宗教もまだ神の存在を感じられてないのね…などと憐れんでくるので大概同じですが、一旦その自分たちが優位にあるという驕りを捨てて、プリミティブに構造を分析します。

さて、キリスト教と空飛ぶスパゲッティ・モンスター教はどっちが正しいでしょうか?

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私にはわかりません。どっちが正しいとかそういう問題より、個人としてどっちを信じたいかじゃないでしょうか。

では科学教と空飛ぶスパゲッティ・モンスター教だったらどっちが正しいでしょうか?

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私は科学教徒なので途端に科学教の肩を持ちたくなります。しかし、構造的には何も変わっていません。であれば、答えはどちらが正しいかわかりません。

あなたが、「いや、科学が正しい」と言いたくなったとしたら、それはあなたは「科学教徒」に他なりません。

釈然としませんね

それでも釈然としない人はいると思います。だって科学は正しいじゃんかよ。

ええ、私も思います。実を思えば私もそう思っているのですが、大事なのは、宗教の外部に居る人からは、どちらも変わらないように見えるということです。

相手を説得する - 改宗のロジック

さて、別の宗教の信徒である相手を改宗させるためには、どのようにすればいいでのでしょうか?

基本的には
1.相手の宗教の性能的限界を突き付ける
2.自宗教では説明できるというロジックを突き付ける
3.相手に”啓蒙”する

の3段階のように思います。

例えば絶体絶命の危機において豪運で命を助かり、それが数学的には到底なし得ないような確率だった時、科学の限界にぶち当たり事象を説明できなくなります(本当は説明できるんですが)。
その上で、それは神の奇跡ですよ、と言われると、コロッと改宗してしまうのです。

(統計的に無視していい確率の事象が起きたから)私は神の介在を信じます」、という感じです。

終わりに

最近なぜか自己啓発に近い文章書いてる気がします。そういうnoteではない。

あと、「床に落ちたものをすぐに拾う教」の教徒は我が物顔で自分の信仰が正しいと妄信するのやめてください。狂信者め…。

いただいたお気持ちは、お茶代や、本題、美術館代など、今後の記事の糧にします!