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課題図書を読んで | メッシュワークゼミ 3期

メッシュワークゼミの合宿を終えた後は、課題図書を読むこととなっていた。課題図書なんて言われたのは中学生以来だと思いつつ、3冊の本を読むこととなった。

この記事はそれらの本を読んでの感想であり、あるいはみんなとのディスカッションの中で感じたことである。

あまり整理されてない雑多なメモである。

課題図書
『人類学とは何か』ティム・インゴルド 著
『フィールドワークへの挑戦―“実践”人類学入門』菅原和孝 編
『西太平洋の遠洋航海者』ブロニスワフ・マリノフスキ 著

1.『人類学とは何か』ティム・インゴルド 著(亜紀書房)

他者と“ともに"学ぶこと——
他者と向き合い、ともに生きるとは、どういうことか。
人類学は、未来を切り拓くことができるのか。
現代思想、アートをはじめ、ジャンルを超えた影響と挑発をあたえつづけるティム・インゴルド。
世界の知をリードする巨人が語る、人類学と人類の未来。
世界が直面する未曾有の危機にどう立ち向かうべきか。
インゴルドの思想の核心にして最良の人類学入門。

引用;amazonの説明

インゴルドのことは、ラトゥールのANTなどを下地とし、生物社会的存在バイオソーシャルビーイングスや、関係論的存在論を提唱した人類学者として認識している。ラインズやメイキングなどの著作は聞いたことがある。

とはいえ、自分は今まで人類学のことを側から眺めていただけなのもあり、初インゴルドである。家にある読んでないメイキングのことは申し訳ないと思っている。

他者を真摯に受け取ること

現象の質は現前の中にしか、つまり現象を知覚する私たちを含む、周囲の環境に現象が開かれる中にしかないからである。しかし質をデータに変える瞬間に、現象はその情報の母胎から切り離されて孤立してしまう。彼らの言うことが彼らについて何を語るのかにしか興味がない質的データを集めることは、人々に対して開かれていくようでいて、その実、彼らに背を向けるようなものなのだ。 (p.18)

他者を真摯に受け取ることが私の言わんとする人類学の第1の原則である
(中略)
彼らは、他者の思考と行動を私たちのものより真剣に受け取らないことを正当化するような推論や情報、あるいは成熟度といった尺度の上に他者がランクづけされることがあってはならないという原理を主張している(P.21)

私はUXリサーチャーだが、現在のUX界隈の主流はインタビューであり、一方でインタビューはデータをとってくる裏付け行為に近い、と常々感じている。

私たちは概ね仕事というものに追われていて、答えを出すようなリサーチをしているかもしれない。他者を本当に真摯に受け取れているのだろうか?

それは単に相手をリスペクトする姿勢が大事、という生優しい話だけではなくそのやり方も見返されるべきだ。
構造化されたインタビューは本当に相手を真摯に受け取るものなのだろうか?フィールドに入らずして我々は何をわかった気になっているのか?そこにナラティブは介在しているのか?ということなど多くの悩みがある。

インゴルドは人類学のことを人を研究対象とするではなく、人ともに研究すると言っている。私たちは本当にユーザーと共に何かを作れているんだろうか?

2.『フィールドワークへの挑戦―“実践”人類学入門』菅原和孝 編(世界思想社)

菅原先生は、メッシュワーク 比嘉さんの先生。この本には比嘉さんが書いた文書も出てくる。

フィールドワークへの挑戦では、菅原先生が生徒のフィールドワークレポートを評価することで、フィールドに入るとはどういうことかを描き出す。
良い本だった。

完全に理解できないものを、理解しようともがき続けること

しかし、どうも腑に落ちないといった表情の教官の、最後のコメントに私はどきりとした。 「振り売りは確かに面白そうだが、実際に彼らが何をどれくらい育てて、どういう値段でどれほどの人に売っているのか、さっぱり見えてこない。市場流通と対比させて捉えているようだが、本当にそういうものなのか」という一言であった。
(中略)
私は何も答えられなかった。 確かにその通り、私は振売りそのものについて、まだほとんど何も知らないままだったのである。 それなのに私は「大量市場流通システムが切り捨ててきた、手間がかかりな郵送も困難な、しかし味の良い野菜を今なお生産・供給しつづける伝統的野菜行商=振売り」とわかったように語っていたのである。 これでは、あらかじめ描きたいストーリーを作り、「色眼鏡」を通して対象を見る三流のメディア報道と同じではないか。(P.175)

そもそも、屠殺に焦点を当てることからこのフィールドワークは始まった。「殺すこと」を残酷だと言いながら笑顔で肉を食べる、そういった動物に対するアンビヴァレントな感情はどのように理解されうるのか。
その謎を解こうと、私は沖縄へ辿り着いた。しかし人々に問いかける中で気付かされたのは、それまで感じていた「屠殺」という行為への強いこだわりとは、調査者である私自身の認識の反映なのでは、という事実だった。(P.231)

2つに対して同じことであるが、自らが抱いていた単純化されたイメージと実態の乖離を知り、自分自身のまなざしの存在を自覚した時に、あるいは、より複雑で大きな文脈の一部であると気づいた時、それを受容しきれないかもしれないなと不安を感じることがある。
著者の菅原先生ですらそこの悩みをたびたび書いている。
私たちはどのようにして柔らかくしなやかでいられるのだろうか。

比嘉さんは、それまで抱いていた大きな物語が崩れいく感覚や、そうでない何かに直面した時のざらざらとした感覚はどうしてもある、という話をしていた。
昨今、他者理解とか異文化理解とかいうけれども、理解したいけれど、「理解できますね」という話とは全然違う。
私たちどこまでもその人のパースペクティブになることはできない。
しかしながらいかにそこに近づけるかを問い続けることになる。ざらざらとして、修行のようで、苦しいこと。
真に到達し得ないものに対してどれだけ近づけるかを努力するのがリサーチャーなのだと思う。自分で言うのもなんだが巡礼のような仕事である。

これについては前書いたことがある。

フィールドワークの質とは?

菅原先生は生徒のフィールドワークレポートを「あれがいけない」「これがいけない」と評価するのだが、最初自分は果たして何を持ってフィールドワークの良し悪しを評価しうるのだろう?と気になった。

その質問に比嘉さんが答えてくれた

私の恩師たちも、そして私自身も、フィールドで出会う人たちのことを「インフォーマント」とは呼ばないんですよね。たしかに彼らは情報も提供してくれるのですが、でもそれが主ではない、あるいはそういう関係性ではない、そんな認識なのかなと思います。

ここにもまた観察者としてのスタンスをたしなめる流れがある。
観察者然としており、そこに主体者がない…だったり、関係性の中に入るのではなく搾取し続けるみたいなところに対しての指摘のニュアンスだと受け取った。

そうではなく、私と相手の間に立ち上がるもの(立ち上がるという表現を比嘉さんはよく使う)を重要にしていかなければいけないのだと。誰がも聞いて同じ答えになるのではなく、私が聞くことでも、比嘉さんが聞くことでも、違う答えが返ってくる。そうした関係性の中でしか引き出せないものが重要なのではないか、と。

ナラティブについて

フィールドワークの記述に他のものにはない生き遣いを感じる。それは血だったり、葛藤だったり、苦しさだったり、喜びだったり。
整理されたものではなく、葛藤のある、腑に落ち切らないもの。
人間らしい-生感。

人間という構造化されてないものをそのまま語る、というような。

最近自分が考えていることなのだが、おそらくUXリサーチ/デザインとは「濃密なナラティブを収集し、サービスの上でどのようなナラティブが描かれうるかを探索すること」プロセスだと思う。
組み込もうとしたら消えるのかもしれない。

3.『西太平洋の遠洋航海者』ブロニスワフ・マリノフスキ 著 (講談社学術文庫)

分量が重たいとのこと(時間が足りず発表までに読みきれなかった)
まだクラの話にも辿り着けてないので、読めてるとこまでから

断片的であることをどのように断片的であると理解させるか。あるいは、

さらに博士は、懸命にもどのように交換が行われるかを叙述するだけに終始することを避け、その根底にあるさまざまなな動機や、現地住民の心をその交換が刺激して起こす感情にまでつき入ろうとされている。
純粋な社会学は、行為の記述だけに研究を限定すべきであり、動機や感情の問題は、心理学に委ねるべきだという考え方が、時として行われるようである。確かに、動機や感情の分析は、論理的に、行為の記述からは分けて考えることが可能だし、そうしたものは、厳密に言って、心理学の領域に属するものである。
しかし、現実には、一つの行為が観察者にとって意味を持つためには、その行為を行うものの思想や感情を知ったり、推測したりする必要がある。したがって、行為者の心の状態を抜きにして人繋がりの行為を記述しただけでは、社会学の目的にかなわない。なぜなら、社会学の目指すところは、社会における人間の諸行為を、記録するばかりではなく、理解することにあるからである。それゆえに、社会学は、あらゆる場合に心理学の助けを借りなくては、その仕事をやり遂げることができないのである。(P.16)

マリノフスキ博士の方法の特徴は、人間の複雑さを十分に心得てかかっている点にある。いわば、博士は、人間を平たい状態ではなく、膨らみのある丸い状態で見られておられるのである。人間が、少なくとも理性的存在であると同じ程度に、感情の動物であることを忘れずに、常に人間の行為の感情的な基礎と合理的な基礎の両方を明らかにしようと、心をくだいておられる。

科学者は、文学者と同じように、我々の複雑で多面的な存在の一側面だけを考察の対象として、人間なるものを、抽象的に見るきらいがある。

偉大な作家たちの中で、この一面的な扱い方をする好例といえば、モリエールが挙げられる。モリエールの書く人物は、守銭奴とか、偽善者とか、気取り屋とか、皆平板な状態で観察されているにすぎない。あらゆる登場人物は、人間らしく装われた案山子であって、相似は外見のみにとどまり、中身はまるっきり何もなく急遽である。つまり、文学的効果のために、人間性の真実が犠牲にされているのである。ところがセルバンテスやシェイクスピアの描く人物は一つの面に限定されず、多くの面から描かれているので、中身がずっしりとある。(P.17-18)

まだほとんど読めてないが、本書が目指しているのものは「交換をそのものだけではなく、それが内在するより大きな世界-哲学-精神性を描かなければ、それが何であるかを語れない」という事を実践するものだと解釈している。

さて、自分はUXリサーチャーなのでどうしても仕事というものが付きまとう。
だからこそ下のような疑問が頭から離れない。
どうして、直接的質問を10個ぐらいするだけで、相手のことがわかると言えるのだろうか?
しかも、その相手に聞くべきかどうかではなく、自分が知りたい10個を持って、No.1の問を聞き、返答がきたらそれで「解決」したことになるのか?
断片的な理解と、その世界-哲学-精神を理解することの間にどれだけの隔たりがあるかを、その隔たりを知らぬ人との間に横たわる溝をどのように埋めれば良いのだろうか?体験してもらう、しかないのか?

比嘉さんは自分たちが見ていることがいかに断片的なのかという質なのかということを理解し一側面に過ぎないことを自覚することが重要と言っていた。
それがどれくらい断片であるか。それが行われている場に行くことは、インタビューのノイズのなさとは違っていて、でもノイズについて意識を向けることが重要で。その人たちを連れ出してくることと、その場に入っていくは全然違う。
「知っていると思っている世界が、知らないものであると気づく」ことも重要なのかもしれない。

終わりに

3冊…というか、2.2冊ぐらいを読んだ。マリノフスキは時間を見つけて読みたい。
実を言うと自分は今までリサーチの手解きを誰かに受けたことがほぼなく、かなり独学に近い。
とは言いつつ、自分の周りにリサーチをたくさんやってきた人がいないこともあり、自分の悩みを共有できる人がなかなかいない。
そうした中、比嘉さんは自身に悩みがあることを隠さず、それでいて共に悩んでいただけるところが、本当にありがたいなと感じている。

教えてもらっているという関係性ではなく、語らっている気がしていて私は嬉しい。
答えはない問いに、同じ世界で取り組んでいる人がいると言う事実が私を安心させる。

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