課題図書を読んで | メッシュワークゼミ 3期
メッシュワークゼミの合宿を終えた後は、課題図書を読むこととなっていた。課題図書なんて言われたのは中学生以来だと思いつつ、3冊の本を読むこととなった。
この記事はそれらの本を読んでの感想であり、あるいはみんなとのディスカッションの中で感じたことである。
あまり整理されてない雑多なメモである。
1.『人類学とは何か』ティム・インゴルド 著(亜紀書房)
インゴルドのことは、ラトゥールのANTなどを下地とし、生物社会的存在や、関係論的存在論を提唱した人類学者として認識している。ラインズやメイキングなどの著作は聞いたことがある。
とはいえ、自分は今まで人類学のことを側から眺めていただけなのもあり、初インゴルドである。家にある読んでないメイキングのことは申し訳ないと思っている。
他者を真摯に受け取ること
私はUXリサーチャーだが、現在のUX界隈の主流はインタビューであり、一方でインタビューはデータをとってくる裏付け行為に近い、と常々感じている。
私たちは概ね仕事というものに追われていて、答えを出すようなリサーチをしているかもしれない。他者を本当に真摯に受け取れているのだろうか?
それは単に相手をリスペクトする姿勢が大事、という生優しい話だけではなくそのやり方も見返されるべきだ。
構造化されたインタビューは本当に相手を真摯に受け取るものなのだろうか?フィールドに入らずして我々は何をわかった気になっているのか?そこにナラティブは介在しているのか?ということなど多くの悩みがある。
インゴルドは人類学のことを人を研究対象とするではなく、人ともに研究すると言っている。私たちは本当にユーザーと共に何かを作れているんだろうか?
2.『フィールドワークへの挑戦―“実践”人類学入門』菅原和孝 編(世界思想社)
菅原先生は、メッシュワーク 比嘉さんの先生。この本には比嘉さんが書いた文書も出てくる。
フィールドワークへの挑戦では、菅原先生が生徒のフィールドワークレポートを評価することで、フィールドに入るとはどういうことかを描き出す。
良い本だった。
完全に理解できないものを、理解しようともがき続けること
2つに対して同じことであるが、自らが抱いていた単純化されたイメージと実態の乖離を知り、自分自身のまなざしの存在を自覚した時に、あるいは、より複雑で大きな文脈の一部であると気づいた時、それを受容しきれないかもしれないなと不安を感じることがある。
著者の菅原先生ですらそこの悩みをたびたび書いている。
私たちはどのようにして柔らかくしなやかでいられるのだろうか。
比嘉さんは、それまで抱いていた大きな物語が崩れいく感覚や、そうでない何かに直面した時のざらざらとした感覚はどうしてもある、という話をしていた。
昨今、他者理解とか異文化理解とかいうけれども、理解したいけれど、「理解できますね」という話とは全然違う。
私たちどこまでもその人のパースペクティブになることはできない。
しかしながらいかにそこに近づけるかを問い続けることになる。ざらざらとして、修行のようで、苦しいこと。
真に到達し得ないものに対してどれだけ近づけるかを努力するのがリサーチャーなのだと思う。自分で言うのもなんだが巡礼のような仕事である。
これについては前書いたことがある。
フィールドワークの質とは?
菅原先生は生徒のフィールドワークレポートを「あれがいけない」「これがいけない」と評価するのだが、最初自分は果たして何を持ってフィールドワークの良し悪しを評価しうるのだろう?と気になった。
その質問に比嘉さんが答えてくれた
ここにもまた観察者としてのスタンスをたしなめる流れがある。
観察者然としており、そこに主体者がない…だったり、関係性の中に入るのではなく搾取し続けるみたいなところに対しての指摘のニュアンスだと受け取った。
そうではなく、私と相手の間に立ち上がるもの(立ち上がるという表現を比嘉さんはよく使う)を重要にしていかなければいけないのだと。誰がも聞いて同じ答えになるのではなく、私が聞くことでも、比嘉さんが聞くことでも、違う答えが返ってくる。そうした関係性の中でしか引き出せないものが重要なのではないか、と。
ナラティブについて
フィールドワークの記述に他のものにはない生き遣いを感じる。それは血だったり、葛藤だったり、苦しさだったり、喜びだったり。
整理されたものではなく、葛藤のある、腑に落ち切らないもの。
人間らしい-生感。
人間という構造化されてないものをそのまま語る、というような。
最近自分が考えていることなのだが、おそらくUXリサーチ/デザインとは「濃密なナラティブを収集し、サービスの上でどのようなナラティブが描かれうるかを探索すること」プロセスだと思う。
組み込もうとしたら消えるのかもしれない。
3.『西太平洋の遠洋航海者』ブロニスワフ・マリノフスキ 著 (講談社学術文庫)
分量が重たいとのこと(時間が足りず発表までに読みきれなかった)
まだクラの話にも辿り着けてないので、読めてるとこまでから
断片的であることをどのように断片的であると理解させるか。あるいは、
まだほとんど読めてないが、本書が目指しているのものは「交換をそのものだけではなく、それが内在するより大きな世界-哲学-精神性を描かなければ、それが何であるかを語れない」という事を実践するものだと解釈している。
さて、自分はUXリサーチャーなのでどうしても仕事というものが付きまとう。
だからこそ下のような疑問が頭から離れない。
どうして、直接的質問を10個ぐらいするだけで、相手のことがわかると言えるのだろうか?
しかも、その相手に聞くべきかどうかではなく、自分が知りたい10個を持って、No.1の問を聞き、返答がきたらそれで「解決」したことになるのか?
断片的な理解と、その世界-哲学-精神を理解することの間にどれだけの隔たりがあるかを、その隔たりを知らぬ人との間に横たわる溝をどのように埋めれば良いのだろうか?体験してもらう、しかないのか?
比嘉さんは自分たちが見ていることがいかに断片的なのかという質なのかということを理解し一側面に過ぎないことを自覚することが重要と言っていた。
それがどれくらい断片であるか。それが行われている場に行くことは、インタビューのノイズのなさとは違っていて、でもノイズについて意識を向けることが重要で。その人たちを連れ出してくることと、その場に入っていくは全然違う。
「知っていると思っている世界が、知らないものであると気づく」ことも重要なのかもしれない。
終わりに
3冊…というか、2.2冊ぐらいを読んだ。マリノフスキは時間を見つけて読みたい。
実を言うと自分は今までリサーチの手解きを誰かに受けたことがほぼなく、かなり独学に近い。
とは言いつつ、自分の周りにリサーチをたくさんやってきた人がいないこともあり、自分の悩みを共有できる人がなかなかいない。
そうした中、比嘉さんは自身に悩みがあることを隠さず、それでいて共に悩んでいただけるところが、本当にありがたいなと感じている。
教えてもらっているという関係性ではなく、語らっている気がしていて私は嬉しい。
答えはない問いに、同じ世界で取り組んでいる人がいると言う事実が私を安心させる。