見出し画像

有名作品の前の群衆。この光景に違和感を持った。美術鑑賞を文化鑑賞に。

図6
図1 サンドロ・ボッティチェリ作《春》 @ウフィツィ美術館

 上の写真はそれぞれ、ルーブル美術館の《モナリザ》(見出し画像)、ウフィツィ美術館の《春》(図1)です。ご覧のように常に大勢の人に囲まれ、スマートフォンやカメラが向けられています。

 上記2作品の前で、作品そのもののよさや美しさに魅せられている人がどれだけいるでしょうか。また2作品それぞれの近場にある他の作品と比べて、誰が見ても明白な何らかの差はあるのでしょうか。

 ルーブル美術館もウフィツィ美術館も、展示されている作品は各文化圏・各時代・各作家の傑作と言われる作品ばかりです。ただ、このような光景が見られる作品に共通する特徴は、圧倒的知名度です。知名度の高さが、その作品が持つ価値に結びついています。


美術とは何か

 元々世の中に美術という認識枠組みはありませんでした。それらは神殿や教会、神社やお寺など、現在では文化遺産とも言うべき建物に供えられている呪術的なものなどでした。神聖なものに高い技術が駆使されるのは当然のことで、彫刻技術や描写技術のその時代の粋が駆使されました。

 次第にそれを貴族やお金持ちなどが買い、権力を誇示するためのステータスとして保持するようになります。当時呪術的なものだったものたちは、場と役割が変わることになりました。このことを私は脱文脈化と言っています。
 儀式などに利用される宗教的な場ではなくなり、貴族や有力者たちが人々に見せるためのショーケース等展示スペースへと変わりました。役割・文脈を無くしたものたちは、素材の表面に駆使された高い技術に注目されるようになります。造形的な美しい術が施されたもの。そこで美術という認識が生まれ、美術館という認識に変わります。


美術の再文脈化=文化遺産 文化遺産の脱文脈化=美術

図7
図2 知の女神アテネに捧げられたパルテノン神殿

 Museumのumというのはstadium、planetariumなどのumと同様、建物、館を表します。つまり、アテネのような知の女神muse(ミューズ)に捧げたパルテノン神殿(図2)のような知の館を意味します。女神に捧げられていた彫刻やレリーフ、壁画や工芸品等が、今で言う「美術」です(図3)。

図8
図3 パルテノン神殿の横、エレクテイオン神殿に見られる女像柱(レプリカ)


 神殿にあったときは呪術的な意味や役割を帯びていたものが、切り離された瞬間そういったものがなくなったため、「美しい術が施されているもの」=「美術」として見なされるようになりました(図4)。

図9
図4 新アクロポリス博物館に保存・展示されているエレクテイオンの女像柱(オリジナル)

 美術として、造形的な視点でものを見ると、技術が優れていたり美しいものであれば、元々の文脈に関係なく価値が認められます。《モナリザ》や《春》がその最たる例と言えますが、あの場では「美術的価値」よりも「圧倒的知名度」が上回って継承されているように思えます。


美的価値の再構築

 知名度の高さが美術の価値に結びついているとするならば、知名度の低い美術に価値は無いということになりかねません。しかし各地を旅しながら自分の目で美術を見て回っていると、とてもそうは思えません。むしろ知名度の低さに価値を感じることがしばしばです。

 美術に元々の文脈を付加して、文化遺産として、当時担っていた役割と場を共に鑑賞対象に戻すことを、当研究室において再文脈化と言っています。美術を脱文脈化したものの典型としたのに対し、再文脈化したものの典型を文化遺産(遺跡や宗教施設、町並み等)としました。

 有名作品前の群衆を見てから、美的価値は確認するものではなく、発見するものであるべきだと感じています。発見するときの能動的なまなざしは知的好奇心とともにあり、作品の価値を知名度の高さではなく、独自に積み重ねてきたその周囲の文化的・歴史的・宗教的価値等と共に掘り起こされていくからです。

 そのため各国で、美術館・博物館と、遺跡や町並みをセットでフィールドワークに取り組んできました。知名度の高さが形成した文脈ではなく、つくられた当時の元々の文脈を把握するためです。

 ここに、美術鑑賞を文化鑑賞にするという研究意義と、知名度に関係なく地球上のあらゆる美術文化を地球画として捉えるという地球画研究室のテーマがあります。


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