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自己肯定感を爆上げする為にお菓子を作る話


多分、幼い頃はそんなことなかったような気がしないでもないのだけれども。

私は、自己肯定感が低い。

と、思う。


「私ならもっと出来る筈」


過剰な期待に基づく現実への過小評価の積み重ねが、過不足なく適切に自ら己を肯定する行為を下手にしたのではなかろうか。

……なんて分析もどきはさして重要ではなく。
今現在、自分を是するより非する方が圧倒的に多い。

「生きているだけで偉い」と褒め称えてみたところで、「そもそも生きている価値がない」と蔑むのだから、今更どうこうできるものでもないのだけれど。

そんな時、少し余裕があるとお菓子を作る。


――今回は、そんな話。
なんか無理そうかも、と予感がしたら閉じてくれ。
読み進めるのは自己責任で。

戻るなら今の内だ、心の準備はよろしいか?






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お菓子は、判り易くて良い。

判断基準は美味しいものができたかできないかの二択で、事実と真実が一致しやすくぶれにくい。
他者に食べてもらって、客観的な判断を下してもらうこともできる。
別に、主観入りまくりでも構わない。
極論、「私が」美味しいと感じるものができたら花丸付きの満点なのだ。


こんな美味しいものを作れるのだから、私は凄い。


そう思うことに躊躇しない。
それがどれだけ、自分を、存在を、支えてくれるだろう。

作っている最中も、あまり余計なことを考えないで済む。
というか、考えないようにしている。
作っている最中に考えていることがそのまま溶け込みそうで、少しこわい。きっと、毒のようなものだから。
「作ること」に集中して、余計なことを考えないようにする。
精神的な負荷が減るから、少し楽になる。

本当は昼ご飯でも夕飯でもいいのだけれど、私はお菓子を作る。
というのも、私はちゃんとした時間にちゃんとしたものをちゃんと食べるのが苦手だからだ。
「生きる」の土台に「食べる」があり、「ちゃんと食べる」は「ちゃんと生きる」と同義で、常に希死念慮を纏う私は億劫になる。
(誰かとどこかで食べるのは苦ではない。寧ろ好きだ。ひとりの時にちゃんとするのが苦手なのだろうと思う。)

あってもなくても差し支えないものを作り出すことで、意味や価値を見出そうとする癖のようなものも影響しているのだろうけれど。

この世にひとつ、美味しいお菓子を生み出す度、私は私を褒められる。
この世から居なくなることよりも、居てもいい意味を見出だせる。

クソほど低い自己肯定感を、少しはマシにできる話。でした。


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