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死後のことを考えてみた話


常日頃から「死にたい」と言えど、死に切れる保証もないからと未だに実行に移せていないのは如何なものかと思いつつ、死後のことを考えてみる。

或る人は、天国か地獄へ往くと云う。
或る人は、黄泉の国へ往くと云う。
或る人は、何も無いと云う。
或る人は、未練があればこの世に留まると云う。
或る人は、何かに生まれ変わると云う。

何をどう信じるかは個々人の自由であるのだけれど、信じたそれが事実かどうかは分からずじまいだ。
死んだ後にどうであるか伝える術はなく、知りようがないのだ。本当は術はあるのかも。隠されているだけなのかも。それも知りようがないのだけれど。
死んだら誰にも何も伝えられないのは、確かなことだ。
(心霊現象的なアレや降霊術的なコレはノーカンで。)

そうすると、残された人間は勝手に想像するしかない。
想像した中で、自分で折り合いのつけられるモノを選ぶしかない。

たとえば、私が私を殺して死ねた時。
決め付けられるのは、嫌だと思った。
解った振りをされるのは、嫌だと思った。

ので、その為に何ができるか考えてみた。


――今回は、そんな話。
なんか無理そうかも、と予感がしたら閉じてくれ。
読み進めるのは自己責任で。

戻るなら今の内だ、心の準備はよろしいか?







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最初にパッと浮かんだのは、世間一般的には「遺書」と呼ばれるものを書くこと。

言葉をどれほど綴った所で、私の気持ちが100%他人に理解されるとは思ってはいない。
(自分でも自分の気持ちが判らなくて解らないのに、他人に分かる訳がなかろう、という。)
思ってはいないのだけれども、それを加味しても概ね正しく理解できそうな相手が幸いにも居るので、言葉を残してもいいのかもしれない、とも思う。
まぁ、その相手が本当に概ね正しく理解できているのか否かの答え合わせだけはできないのだけれど。

それはそれとして、いずれ死ぬのは自然の摂理で、早いか遅いか、自死かそれ以外かの違いだけならば、「いつか」の為に書いておこうと思った。
伝えておけばよかったって後悔しないなら、いつでも死ねるかなぁと。


次に、誰にどう連絡するかを一覧にする。

正直なところ、これは別にしなくてもいいかなと最初は思っていた。
が、自分が逆の立場だったら知らないのは寂しいと感じることに思い至ったのと、
(私がいなくなったところで世界は何ら変わりはないし、相手も同じように感じるかも分からないけれど。)
親族が把握している私の交友関係に連絡先が付随していないことを思い出したので、することにした。

幸い、交友関係は激狭なので親族から連絡するのは少なくて済む。
グループで付き合いのあるところには、誰かしらに連絡が行って、その人からそのグループに連絡が行くようにお願いすると思う。
何人かには手間を取らせるけれど、最後なので多目に見てほしい。
何の脈絡もなしに私から連絡先聞かれたら、そういうことだと思ってください。


それから、所持品の処分の仕方をリスト化する。
携帯や口座の解約手続きとか、書籍や雑貨の整理(所謂、遺品整理。)についてだ。

先日亡くなった祖父は、入院中に注文していて結局読めなかった本を棺に入れて一緒に焼いてもらっていた。
骨董品を集めるのも趣味で、祖父宅の倉庫にめっちゃ残っているらしい。
それらの扱いに悩んでいた祖母や叔母を目の当たりにして、「何を持っていて、どう処分してほしいか」は、明確に残しておかねばなるまいと強く思った。

残された人らへの配慮、というより、私自身の気持ちの問題で。
私にとって価値あるものが、他者にとって価値あるものとは限らない。
大して好きでもないものを「好きだろうから」と棺に入れられるのも嫌だし、一緒に焼いてほしいものを「これはいっか」と残されてその後処分されるのは、嫌だ。
適当に扱われるのは、死んだ後の関与できないことだとしても、物凄く嫌なのだ。

物質的に存在する物々は勿論、電子上のデータにも触れておかねばなるまい。
劇伴として書き下ろした曲のデータなどもこれに当て嵌まるので、関係者諸君には連絡が行くと思う。


あとは、葬儀を何式(神式、仏式、無宗教、などなど)でやるかとか、納骨は何処にとか、遺影はどの写真(別になくても構わないのだけど、そうも言っていられないのが難しいところ)とか。
取り敢えずで思い付いた限りはこんなところだろうか。

書き出してみると、意外と死後にやることは多い。
きちんと調べたら(行政関連の手続きとか)もっと出てくるだろうし、その都度考えたり用意したりするつもりではいる。


私は時々、「今なら死んでも許されるだろうか」と思う。
その度に、誰に何をどう許されたいのかとも思う。

1つの解として、「死後のことをこれだけ考えて事前に準備しているから、死んでも許される」というのはアリなのではなかろうか。
何も残さず、何も決めずにいなくなって何も聞けなくなるより、多少はマシだろうから。
理想の死を迎える為に、現実の死を考えてみる話。でした。


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