youtube編集日記5
今日アップのラジオの編集をしていた。「優しさ」と「仕事」の関連性についての話だったかと思っている。
せっかくなので感想やら、現在のメディアプロジェクトにおける、優しさの役割や弊害なんかを書いていこうと思う。
2人はどのようにこれまで優しさを解釈してきたか、どんな人が優しいと感じるか、みたいな尺度から問題を紐解いていた。僕は言葉遊びの方面から問題を紐解いたらおもしろいかなと思うのでそうする。
優しさは定義上では、「利他的なこと」を指すらしい。
利他的とは、まぁ、利己的の逆だ。他社の利益のために行動すること。パッと見での印象では、優しい=利他的、仕事=他社への価値提供であるゆえ、優しいと仕事ができるという図式が成り立ちそうだ。(まだ問題は残っているが、いったんこの図式をベースに話を進める)
優しさが他人に利益をもたらすこと(利他)なのであれば、優しいとはそもそも価値提供をすることを指すことになるかもしれない。ところが重要なのは「優しさ」は「利他」ではなく、「利他的」であるということだ。
では、「的」ってなんなんだろうか。
「〜的」という表現は「〜のような性質のもの」ということらしい。では「利他的」ほぼ「利他」なので、さっきの図式は成立するかのように見える
ここがこの議論の難しいところで、ここで触れられている「利」を解釈するのは自分ではなく、他者であるということだ。僕がなにかの行動をとったときに、それが利であるかどうかを判断するのは、僕ではない人物である。
例えば僕が「コラ!!!!!!馬鹿野郎!!!!!1」ってブチギレ炸裂激怒マウンテンしたとする。
それを受けて、「何こいつキレてんの・・・?」って解釈されたとしたら、僕は「意味わからんところでキレてる利己的な人物」と映るだろう。しかし「怒らせるようなことをしてしまったんだな・・・。」と解釈されたら、僕は「人が怒る箇所を伝えた利他的な人物」と映るかもしれない。僕はあまりブチギレマウンテンに登頂しないが、多分そうだろう。
つまり、この一つの行動には「利他的」と「利己的」が共存している。一見すると二律背反に見える事象だが、実際にはそうではない。では、「優しい」なんて存在しないのか。
上の仮定では重要な前提が存在していなかった。それは、「他者」の特定だ。僕の「コラ!!!!!!馬鹿野郎!!!!!1」が社長に向いていたとき(一揆)、社長にはこれに対する解釈の「正解」が存在する。
この例では(僕がなんでキレてるのかよくわからないが)、例えば「ふざけて言っている、場を盛り上げるための利他的な行動だ」と思うこともあれば、「理論が成立していない。感情を表にすぐに出してしまっている」と捉えることもあるだろう。相変わらず正解がどれかまではわからないが、今回は受け取り手が誰なのか確定しているため、社長が僕を「優しい」と思ったかどうかの「解釈」が発生する。
「この関係においては、この人は優しい」であったり、「この集団においては、この人は優しい」といった状態は発生する。「知り合いによく優しいって言われる」みたいな場合では、その知り合い間で有益な行動をよくとっている、という評価がされているということだろう。
優しい行動をとるためには、特定の他者がなにを利益と感じているかを注意深く観察することだ。話している相手に対して有益なことを行い、不快な行動をとらないことができれば、優しく映ることができるだろう。
すなわち優しさの正体とは、相手に対する理解度のことなのではなかろうか。相手にとって何が嬉しくて、何が嫌かを知っていて、それを提供したときに「優しいなぁ」が生まれる。一般的な優しいとは、統計的な「何が嬉しいか」を満たしているかどうかを指していると考えるのが妥当だろう。
なお、「優しい」かどうかはとくに自分に対して判断をするのが非常に難しい。優しいかどうかを判断するのが自分ではないから、どうしても統計的なものになってしまう。「優しくなろう」とすることは殊勝なことだが、自分が本当に優しい人間であるかどうかの正確な答え合わせは、永久にできないだろう。
さて、話を元に戻そう。どうやら「優しさ」の正体は相手に対する理解度と、それに対する価値提供であると考察できた。どうやらこれは「優しいってことは、仕事がちょ〜〜〜〜〜できる!!」ではないか?
しかしもう1つ、議論していない内容がある。それは、「仕事=価値提供で、本当によかったのか?」というところだ。優しさが的確な価値提供能力であることはわかった。見落としはないだろうか?
あった。見落としはすなわち、自分に対する価値提供である。
仕事は他社に無償の奉仕をするものではない。報酬を得て、やりがいを得て、その対価として(相手にとって)それを上回る価値を提供するものである、と思う。
仕事は提供ではなく、交換である。ゆえに、相手の要求にただ従うだけでは、仕事をできているとは言えない。自分をも幸せにしてはじめて、仕事のできる人間であるといえるだろう。
仕事は利己的でありながら、利他的であるものだったのだ。
一生懸命ひとり議論してきて、価値提供=優しいまでは紐づけられたが、結局それは仕事の一要素でしかない。仕事には、最終的には利己的な要素を絡めなくてはならなかったのだ。じゃあ今回の議論は無駄か!!!!というと、無駄じゃない!!!!
要は、優しさが仕事のための一要素である以上、仕事ができるようになるためには優しさは「必須要素」だったということだ。
ある種、(ややここまでの議論と矛盾するような表現ではあるが)自分にすら優しくできるようになったら、それは仕事ができるようになったということだろう。
最後ざっくりしたけど、こんなところでしょうか。
大事なこと書き忘れた。仕事において必要な優しさは「成長のための優しさ」と「持続のための優しさ」だと思う。
社長が動画内で言ってた「見守る」は結構これのことを言ってると思っている。ほっとけば成長する人やほっといても続く人についてはこれが正解だけど、ほっとくとサボって成長しない人とか、ほっとくとすぐ飽きちゃう人とかがいる。これらの他人の性質をよく理解して、それらに対応して怒ってみたり、一緒に遊んでみたりするといいんじゃないかなーって思います
長くなりすぎた。
まとめ
・優しい人がいるのではなく、優しいという評価がその場にあるだけ
・優しくなるには相手のことをよく理解しよう
・自分にも優しくなれれば、「優しい人は仕事ができる」になる