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人が人を語るとき

今年になって仕事の役割が変わり、人が人を語るのを聴く機会が多くなった。

元々人を語ることが仕事の一部だったりするのだが、これまでは自分が人について語ることが多く、誰かが人について語るのを聴く機会はさほど多くなかったんだと気がついた。

時間になると一人目の人がやって来て、その人が担当する複数名の人物像について順番に多角度からひとしきり語るのを聴く。すぐに二人目がやって来て同じように語るのを聴き、立て続けに三人目の人からも同じ語りを聴くことになる。

一日何時間も、人が人について語るのを延々と聴き続けるというのはなんとも不思議な体験である。

語られるその人の人生を左右する話題であるという重みもあるからなのだろうけど、仕事を終えた後の疲労感はなかなかのものだ。体の奥底に沈殿した疲労物質は一晩休んだくらいでは消えずに根強く残り、朝になっても身体中に蔓延して自分の表情にまで滲み出ているのがなんとなくわかる。

まだ慣れていないということもあるが、こんなことに慣れてしまってはいけないと思う自分もいる。人語りの沼にどっぷりと入り込んでいった先人たちの成れ果ての姿は、見ていて哀れを誘うものがある。

人が語り出すと、その瞬間にその人が放つ波長によって場の空気ががらっと変わるのがわかる。

どうも人が人を語る時、その人特有のリズムなりエネルギー感なりがあって、それが私自身の波長と合わないとどっと疲れが増すようだ。その人が語っている間中、その人から発せられるエネルギーをずっと受け止め続けているわけで、その威力たるや、雨だれ岩をも穿つが如く、塵も積もれば山となって私の調子を狂わせる。

目的指向が強すぎるのか、そこに物語性を求めてしまうのか、意味と行き着く先を見いだせない冗長で表面的な語りほど苦痛なものはない。熱意が溢れすぎているのも圧がかかってしんどいが、トーンが低すぎたり、単調だったりするのも退屈疲れしてしまう。

自分が磨いてきたはずの傾聴力などたかがこの程度のものかと私を自信喪失に陥れてしまう、そういう人語りのなんと多いことか。

自分は散々語ったくせに、こちらの話はまったく聴く気がない人もいる。こちらが一言でも発しようものなら、終いまで語らせまいと躍起になってさらに語り出す人もいる。自分の語りが否定されてしまう恐れからくる防衛本能だろうか。こちらはきちんとすり合わせをしたいだけなのに、それさえも難しいことが結構あることに驚いている。

私も未熟である。言葉には出さないものの、「とても大事なことを伝えようとしてるのに、少しは耳を傾けようと思わないのか」と無性に苛立ってしまう自分がいる。心の中で「今はあなたが話す番ではなく、一言も漏らさず聴くべきなのに」と憤慨し断罪してしまうことさえある。きっと表情にも出てしまっているだろう。

同じ時間と場を共有する他者に対する私の許容の幅の狭さが、こんなところにも現れている。

そういえばある方に「あなたは人と話してエネルギーがチャージされるタイプではなく、消耗するタイプ」と言われたことがある。これは相手の問題ではなく、私自身の問題なのかもしれない。

しかし中にはごく一部ではあるけれど、聴いていて惚れ惚れとし、心浮き立つような傾聴に値する人語りができる人もいる。

やはり真摯にその人を探求し、独自の言葉で本質を突く核心的な人語りが面白く、知的好奇心を満たされる。そこに鋭い批判眼からくるユーモアのセンスが入ってくると身を乗り出して聴きいってしまう。

根っこはその人に関心を寄せているかどうかだなあ。あまり関心を寄せすぎるのも鬱陶しくなるので、さじ加減のきいた「適度な関心」が塩梅的によいのかもしれない。

語り手ほど無防備なものはない。人が人を語るときほど、その人のことがよくわかる。相手に関心をもって接しているのか、そうじゃないかが伝わってくる。

相手に関心のない人語りほど空虚なものはないなあ、と思いつつ、自分が人について語る時は、一体どんな語り手であるのだろうかと気懸りになった。

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