2つの人生観
みんなの家タブノキさんのツイートを読んで刺激を受けました。
「人生の還り道にこそ自己実現があってしかるべき。生理欲求を低次と見なすべきではない、むしろその中にこそ人としての確かな生の豊かさがある」
との人生観に興味を持ち調べてみようと思った。
まずはマズローの考え(欲求段階説)をおさらい。
人は、生理的欲求(食べたい、寝たい、おしっこしたい等)を土台として、高次の欲求(くつろぎたい、愛されたい、認められたい等)を起こしてゆく、という考え方だ。
生理的欲求→安全欲求→所属と愛の欲求→承認欲求→自己実現の欲求
という順にピラミッドを形成するらしい。
この考え方についてアレコレ語りたい欲が出てくるが(笑)。ひとまず抑える。
つぎに。
「生理的欲求を低次と見なすべきではない」と述べた(らしい)三好氏のお考えについて「もうすこし知りたい」と思ったので。
「親鸞 往相 還相 三好春樹」で検索。
http://shinran-bc.higashihonganji.or.jp/report/report02_bn10.html
こちらの記事がヒットして、参考になった。
三好氏は、現代の人生観を「行きっぱなし」であるとして警鐘を鳴らしている。
親鸞は「行って、還る」と考えているらしい。
なので三好氏は、その視点を持って、介護の在り方も考えたい、としている。
「いきっぱなしの方向の中で、老人をこちら側から見た救済の対象、介護の対象と見るのでなく還相(※筆者注:戻っていく道)を一生懸命に生きている主体であるという捉え方をしなければいけない」 と三好氏は語る。
つまり、人生を「線」でとらえるか「輪」でとらえるか、という違いだろう。
たとえば「一線を越えた」という表現は、「線」上の価値観から湧き起こる感情や思考の表出だと思う。越えた側と越えていない側とを区画する。
「輪」で考えた場合はどうか。
明確な線引きは引きづらくなり、自分も「そうなるかもしれない」という感覚を持つようになるのでは?
そうすると、高齢者問題を始め、ありとあらゆる問題は、線引きしたこちら側と向こう側という話でなく、全体の営みをひっくるめた課題として解決に向かえるのかもしれない。
と、考えてみたが、抽象すぎるし、理想論が過ぎているとも思った。
というより、上の記事ひとつ読んだくらいで、三好さんや親鸞を知った気になってんじゃないよ、と自分ツッコミを入れておこう。
考え方として、線状的な人生観がある。環状的な人生観がある。
という、モデルのイメージだけ掴んでおこう。
何かを言おうと無理やり書き出しましたが。
圧倒的に学びが足りないことに気づいたので「自分メモ」の読み物となりました。
ここまで読んでいただき、拍子抜けさせてしまったと思います。
学びを深めて、おもしろいと思ってもらえるような発信をしていきたいです。
ありがとうございました。
〜あとがき〜
いつぞや自身のツイッターに「知識の段階」についてイメージしたものを書きました。
●とある情報について
1.全然知らない。
2.聞いたことがある。
3.ひとつ、ふたつ話せる内容がある。
4.わりと話せる。通だと思っている。
5.なんでも聞いて!鋭意研究中。
とすると、4、5に該当する人が発信する情報は濃い。
ブログ記事にして、読んでもらおうとか、読者からのリアクションを見てみたい、対話してみたいと思うなら、少なくとも4,5のレベルには情報収集と整理をしたい。
ところが、2,3ぐらいの知識量でも、たとえば有名人が発信すると、むしろその道の情報通が反応してくれて大いに盛り上がることもある。
ということで、初めは、まんべんなく、というよりかは、何かしらのトピックにしぼって、尖って、その道のスペシャリストを目指すほうが、他者から見てもおもしろいだろうし、自分としてもやりがいを感じられる。
などということを考えました。おしまい。
さぁて!ブラックサンダー至高のバター味」を買って、コーヒーのみまーす!笑
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